自分が納得するライフプランを考えたときに

日比谷
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公開:2025/3/1

45歳くらいから週4勤務にして、仕事の負荷を下げようかなと最近考えている。あと約10年。

物心ついたときから20歳くらいまで"survive"していたので、少し早めに負荷を下げた生活に切り替えて、多少早死にしても「楽しく生きられたな」と思いながら逝けるように。

死に物狂いで何とかここまできたので、「もう必死に頑張らなくていいんやで」と自分に言ってあげたい。

生き残ったとはいえ、今も生きるのはわりとしんどい。だからこそ、自分の力で負荷を軽くして、残りの人生を楽しく生きられるように、今頑張っているところ。

あと5年くらい頑張れば、彼女に迷惑をかけずに少しゆっくり生活できるくらいにはなるはず。

そのときには、今投資信託に回している収入の32%を、収入減分+猫ちゃんのシニア期に向けた貯金+仕事以外のやりたいことに使おうと思う。

20歳までは 「survive」、40歳までは「乗り越え」と「自立」と「自由になるための準備」、それ以降は、これまでのしんどさを清算するタイムにしていきたい。

今の仕事は、価値が出せる間はずっと続けたいから、退職がいつになるかは分からない。でも50歳くらいにはコストに見合った価値を出せなくなるんじゃないか、なんて適当に考えている。

背負わされたものからの自由

「背負わされたもののために頑張り続けたまま死ぬのは、後悔するな」と思う。

自己実現のために頑張り続けるのは最高だと思う。でも、背負わされたものから自由になるために頑張ることは、それとは質の違うものだと感じている。

例えば、同性婚ができない社会で私たちが幸せになるための努力と、異性婚で法的に守られながら幸せになる努力――その違い。

セクマイもマジョリティも、パートナーと幸せになるための努力は同じようにしないといけない。でも、セクマイとマジョリティカップルが同じくらい幸せになるためには、どちらがより「背負わされた努力」を強いられているかを考えると不平等さを感じてしまう。

しかも、背負わされた努力は通常、ゼロからの努力と並行して取り組まなければならない。

並行してできる努力には限界がある。その結果、うまくいかなくなることもたくさんある。

わたしは「背負わされた努力」だけでも、普通に頑張るくらいだったら、今頃中卒こどおば引きこもりニートだった自信があるくらいにはドン底だった。

それでも、大学まで出て、1年バイトが続いたことのなかったメンタルを鍛えて、今は週5で十数年働けている。毎週エネルギーを使い果たしてヘロヘロではあるけれど。

平等の上に公平があるべき

わたしはいつも「平等の上に公平があるべきだ」と考えている。

不平等でマイナスを背負った人たちが、ゼロ地点のスタートラインに立てるような活動に、少しでも関わっていきたい。

その具体的な準備の時間を、週4勤務にして確保できたら――そんな思いもある。

探り探りだけど、これはわたしの自己実現の努力でもあると考えている。幸せな人生で終わるために。

@hibiyaeg
生活記録や考えたこと、昔話などを好きなときに綴るところ。