この手に持てる分の

Chiaki
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火事になる夢をみて、そのあとしばらく寝付けずにいた。

――そろそろ寝ようと電気を消すと、窓の外で赤い光がチカチカ瞬いているのが気になり外を見た。消防車が数台並び、ずっと上のほうへ放水している。驚いて窓から見上げると、ゆらめく炎の影が夜の闇に浮かび上がっている。「真上が火事だよ!」と家族に教えて、慌てて荷造りをした。家を出ると、階段には次から次へと上階から降りてくる住人の姿があった。皆どうにか運び出した手荷物を抱えている。「持ち出すのは一度だけ、もう自宅には戻らないでください!」と誘導する人が叫ぶ。駐車場から上を見上げると火元は7階。(わたしの家はどうやら6階らしい)ガラスの割れた窓から勢いよく火が噴き出している。間に合うだろうか、もう自宅のあたりも崩れ落ちてしまうかもしれない。そう思いながらまた階段を上りはじめる――

そこで目が覚めた。夢の温度や解像度はまったくリアルではなかったが、現実に起こりそうな身近な恐怖を覚えてなんだか落ち着かない。朝方のまだ静かな時間のなかで、目をつむり夢に引きずられるままに考えごとをする。

もう自宅に戻れないとして、持てるものも限られている。そうしたら何をもっていくだろう。避難用品のリュックがまずひとつ(貴重品や外付けHDDが入っている)。普段のバッグに入っているもの(財布やスマホなど)、ノートPCにあとは出来るなら持っていきたい大事なものがいくつか……と思い浮かべたところでとまってしまう。それ以外はまあ仕方ないと思えるならば、部屋にあるものの半分以上はなくてもいいものになる。洋服も本もゲームもCDも、机の中にあるものほとんどだっていざとなれば諦められるのだとしたら、どうしてわたしはこんなに物に囲まれて暮らしているんだろう。

もちろんそんな単純な話ではないのは分かっている。なくても困らないものは、あったらうれしいものでもある。それに人間は癒やされたり元気づけられたり、日々の楽しみを所有することで人間らしい文化的な生活ができる。万が一のことがあったとして、どうにか持ち出せた最低限度の大事なものだけで暮らし始めたとしても、時が経てば少しずつあれもこれもと物は増え、買い戻すことだってあるだろう。

いつのまにか少し眠り、アラームの音で目が覚めた。明るくなった部屋を見回して、ああフォトブックは持っていきたいなと思い出す。幼いときのの、覚えていない頃だとか記憶があやふやになっている頃のアルバムも。わたしだけの大事なものではないはずだから。

「あの世にはなんにも持っていけない」ことも「好きなものが身近にあってほしい」のも、どちらも本心で、ただ、大事なものには日々刻々と敏感でありたいと思う。失ったら二度と手に入れられないものがあることも、一方で、今の自分には必要なくなったものがあることも。

どこへいくにも、持っていけるものには限りがある。今一度、好きだと思っているもの、大事だと思っているものをよくよく見極めたい。

と言いつつ、PS5持っていけないかなあなどと考えてしまう。洋服だって気に入ったものは手放したくないし、せっかく手に入れた置き物とか……そうそう簡単に欲は手放せそうにない。

今日のごはんは高菜チャーハン。スーパーで買ったピリ辛高菜を使って。付け合わせの中華スープは少しお酢を加える。加熱すると酸味もほどよく飛び、さっぱりした後味に。

@hica
思い出のまじった日記みたいなエッセイみたいなものを書いています。