朝から夕方までずっと、雲ひとつない快晴が続いている。快晴の空は突き抜けるような鮮烈な青色ではなく、祖父のパジャマのような淡いブルーをしている。こういう日は、意外と人々は空を見上げることが少ないように思う。太陽が雲から出たり隠れたりする日や、天気の移り変わりが激しい日の方が、空模様を逐一確認することが多い。電車が遅延した日の方が、ホームの電光掲示板をみる回数が増えるのと同じだろうか。
2024/05/03
昔から、たべっ子どうぶつが好きだった。まさか、そんな人はいないとは思うが、たべっ子どうぶつを知らない人のために解説をしておこう。
たべっ子どうぶつとは、動物の形をやんわりざっくりとかたどったビスケットに、その動物の英名がスタンプされた商品の名前である。ピンクのタイトル背景とニコニコした動物たちがたくさん書かれたパッケージが目を引く、ポップで昔から変わらない見た目のお菓子。コンビニにも、スーパーにも、大体どこにでも売っている。おっとっととかコアラのマーチとおなじように、食べる前から、どの形が出るか、どんな動物が来るかとワクワクしながら手に取る楽しみがある。
私は小さい頃から動物が好きで、英語に触れる機会が人よりも多かったこともあり、たべっ子どうぶつはアイデンティティを肯定する存在だった。大袈裟だなぁ。子供の頃の、単純に「好き」なお菓子だ。
大きくなるとビスケットを食べる機会が減り、その代わりにカロリーがゼロだからとハリボーグミを食べたり、これはカロリーではなく血肉になるから問題ないのだとスタバに行ったりした。まだ成人していないので、カロリー計算はガバガバだ。
同時に、中学校・高校では弁当生活が始まった。私の弁当はいつも母が作ってくれていた。1段目におかずを、2段目に米を敷くよくある弁当スタイルだ。どちらの階層も私が昼前に蓋を開くまで、決して崩れたりしないほど食べ物がぎっしりと詰まっていた。
友人の弁当は対照的で、まるでデパ地下で売っている上品な行楽弁当のようにいつもふんわりと隙間が空いていた。私の弁当よりも一回り小さく1段しかないし、おかずの数も種類も全く違う。その中で私がひどく憧れたのが、アルファベットの形をしたポテトだった。
私が羨ましいと言う度に友人は「ただの冷凍食品だよ」となんでもないような口調で返した(作ってもらっているのにそんな言い方するのはどうかね、と今なら思う)。だけど、私にはひどく魅力的だった。AとかBとか(以下24文字は割愛する)いろんな形の小さなハッシュドポテトがいつも弁当のすみにちょこんと並んでいる。その日に選ばれた文字列に意味は無い。だがかわいい。そして何より、そこにはランダム性があり、食べるだけでなく見る楽しみがある。羨ましい。
一度だけ、母にねだって私の弁当にも入れてもらったことがあった。母は冷凍食品をあまり好まず、添加物だらけな上に油でギトっとしているポテトのことをこれっぽっちもよく思っていなかった。私の求めるワクワクについても理解してもらえなかった。そんな母が渋々入れてくれたにもかかわらず、私の弁当の中に入れられたポテトは他のおかずによってペシャンコに潰されてしまった。"P"は中の丸がつぶれてただの旗のようになるし、"T"は折れて長さの違う二本の"I"になってしまう。私の弁当に入るためには、他のおかずからの圧力に耐えて生き残る必要があるのだ。満員電車で押しつぶされながらも無心を保ち、心折れずに会社まで向かう社会人のように。
ところでアルファベットを模した食べ物には、他にどんなものがあるんだろう。例えばクッキーとか。例えばマカロニとか。探せば割と色々ある。
一方で、ひらがなを模した食べ物はどうなんだろうか、と先日ふと思った。ひらがなのポテト、ひらがなのクッキー、ひらがなのグミ、ひらがなのマカロニ、ひらがなのパン。そういえば、ひらがなの食べ物って全然なくない?
アルファベットはいとも簡単にクッキーにできるが、なぜかひらがなはクッキーにし難い。それはなぜだろう、と考えた時に一つの事実にたどり着く。ひらがなはアルファベットと違って、ひとつの文字の中でいくつかのパーツがゆるい結合で繋がっている。
例えば、"う"の上の点と"え"の上の点は、それぞれ"う"の下と、"え"の下と見えない線で結合しているが(習字でよく習うやつだ)、上の点だけがそこに存在している場合、どちらのひらがなからやってきた点なのか区別する術はない。クッキーにしてしまった場合、その点が"う"と紐づくのか、それも"え"と一緒にいたがっているのか、素人の私には判別がつかない。
"は"と"に"の左側もそうだ。筆で書いたような字にするのならクッキーにすることもできそうだが、それだとちょっと達筆すぎて、なんだかクッキーの持つ印象と習字の先生が書いたようなひらがなの形がちぐはぐになってしまう。
他の言語はどうなんだろう?
フランス語のアクサンやスペイン語のティルデのように発音を強調する符号もクッキーにしづらい。ただ、それぞれの文字とだけ結合しているわけではないので、他文字へ代替することへの心理的ハードルはひらがなよりも低そうだ。タイ語などは文字から離れた点がほとんどなく、割となんとかなりそうな気もする。ハングルなどは日本語と同じ悩みを抱えるのだろうか?それとも、パーツを組み合わせても文字の表現や点の向き、長さが変わることはあまりないのだろうか。この辺は知識がなくてよく分からない。
こんなことを取り止めもなく考えていると、ひらがなという親しんできた文化の面白さを感じる。世の中の言語分類の定義のひとつに「クッキーにできる」または「クッキーにできない」という新しい概念を取り入れてみるのはどうだろうか。
今日はここまで。