本日の天気は曇り。10月だというのに暑さを残した一週間前とは打って変わって、突然の寒さが関東を襲った。全身が縮こまり、風を正面から受けると(そうだ、寒さのスイッチは首元にあるんだった)と冬がどのように私たちを苦しめるかを一年ぶりに思い出し、そうしてマフラーが恋しくなる。
まだ木は枯れず落ち葉はないが、虫の声は聞こえなくなった。道を歩くとなにかの木の実が踏み潰された匂いがする。雲が低く、まるでいまから不吉で理不尽な事件が起こりますと言わんばかりの空模様。クリーニング店は、もう忙しくなってきているだろうか。
2024/10/10
前回の日記を読んで、知らない景色だというのに思わず引き込まれてしまった。知らない本屋、知らない夜の景色。それなのに、日記を読んであの本屋が恋しくなっている。
今でもあの本屋が恋しい。22時20分とかそれくらいの時間、シャッターを下ろして後輩やバイトさん、時にはひとりきりで駅まで歩く。気持ちが沈んでいる時はすぐにイヤホンをしてお気に入りのプレイリストを再生する。駅に向かうまでの道のりの中で、お店の明かりが減っていく。最後の明かりが、確かその本屋だった。もしかしたら正確には違うかもしれないけれど、確かそれくらいの距離だった。本屋さんまだやってるんだ。それだけでうれしい。それだけでうれしかった。そういう思い出が、あの頃のあの通りにあった。
本屋の灯りが、新しい建物が古く低い建物の隙間を申し訳なさげに埋める京都の街の中に、遠く見える。私に向かって微笑みかけてはくれないけれど、その光は私を傷つけないだろう。そう思える。まるで灯台のように。
そういえば、私にも灯台のような場所があった。いつもは親に連れられて行ったのに、たった一度だけ、小学生だか中学生だかの頃に、無謀にも平日の夜に自分一人だけで訪れたあの場所。
家からすぐの場所にあった映画館は、商業ビルの最上階に位置していた。その下はレストランフロア。そこから下はフロアごとに様々な店舗が入っているテナントビルだった。片側が透明になっているモダンなデザインのエレベーターで最上階へ上がり、小さな箱の扉が開くと映画館特有のあの匂いがする。ふかふかのカーペット、上映開始のアナウンス、まばらにある人の声。重く分厚い辞書のような扉に締め切られていて、映画の音は聞こえない。
エレベーターを降りた人がまず向かうのは、チケットの販売所か、もしくは頭上に掲げられた上映時間の電光掲示案内板の前だった。丸や三角、バツの表示が掲げられた掲示板を並んで見上げ、目当てのものを見つけるとなにも言わずに離れていく。その光景が空港にも似ていて、子供ながらに好きだった。
いろいろな都合があって、家にいることがひどくしんどくなった日があった。家にいて、親の庇護下で、与えられたものの中にいることが何故か無性に情けないと感じたのだ。それは前々からあった予兆の延長ではなく、突然やってきた。
私は一人で立つことができるはずだ。誰にも邪魔されず思うままに行動する権利がある。私を止める権利は他人にはないのだ。私には、私自身を好きにするだけの力と意志と、それを実現するだけの自由があるのだと、そう思いたかったのかもしれない。あるいは、そう誰かに言って欲しかったのかもしれない。
私は財布の中に1000円札が数枚あることを確かめて家を出た。まだ帰宅していない両親には「映画館に行きます。」とだけ書き置きをして。産まれてこの方、そんなことをしたことは一度もなかった。一人で映画館に向かう道を歩くのも、夕方になり家へ帰る人々の波と逆の方向へ歩くのも。事前の連絡もなく外へ出かけるのも初めてだった。ケータイで連絡をせず手書きのメモにしたのも、なんだかいっそう覚悟めいていた。今まで知らなかっただけで、自分はこんなにも大胆な人だったのかと驚いたほどだった。
家から映画館までは歩いて10分程度だけれど、家を出て2分後には自分がとんでもないことをしているんじゃないかという気持ちが沸き起こった。今ならひきかえせる。両親が帰る前にあの書き置きを破って捨て、何事も無かったかのようにリビングで宿題を開いておくことができる。今なら、まだ。私は自分の中心で勇気と恐怖をなんども取っかえ引っ変えしながら、少し遠くにそびえる商業ビルの最上階を目指した。あの場所は、私を両手でやさしく迎え入れたり、微笑みかけてはくれない。けれども、私を傷付けないだろう。
きっと今日の自分にはあの場所が必要だという、根拠の無い確信が胸の中にあった。だから足取りが少し遅くなることはあれど、踵を返すことはしなかった。あの場所に行くのだと、あの場所に一人で行くことのできる自分になるのだと、私が私の背中を押していたからだ。
その日に観た映画のことは何一つ記憶していない。帰ってから両親にどんなことを言われたのかも、全く覚えていない。ただ、あの灯台を目指して歩いた道のりが今でも私を支えている。
先日、電車で隣に座った人が熱心にスマホゲームをしているところに遭遇した。彼は画面を開いたまま何もせず、ただキャラクターが敵を倒す画面にじっと目を落としていた。私は不思議に思う。彼は一切操作をせず、コマンドを出すことも無く、アイテムを使うことも無く、スマホの中でバトルがぐんぐん進んでいくのをただただ見ている。このゲームの中には、彼の意思はほとんど何一つ存在していない。ならば、一体彼はなんなんだろうか?このゲームの中のどこに、彼は存在しているんだろうか?
もしかして、彼はただ、キャラクターを所持しているだけの人なのかもしれない、と私は思った。所有していることに価値がある。彼はただ、「持っている」だけの人なのだと。カードを、キャラを、武器を持っている人。持っているということが、彼にとっては最も重要な価値なのかもしれない、と。
灯台の元へたどり着いた私は、あの日、確かに持っていた。私自身の人生をこの手に持っていた。握っていた。買った花束を抱くように、ライブのチケットを落とすまいと握りしめるように。その瞬間、私は確かに持っていたのだ。
ゆっくりと人口が減る時代に抗えず潰れてしまったあの映画館は、今でも私の中に灯っている。
灯台。そう、燈台。遠くにただあってなにも言わず、悠然とたたずむもの。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンのように、虎に翼のように、私はそうやって灯りの元で傷を癒してきたのだ。
今日はここまで。