女が死ぬ。プロットを転換させるために死ぬ。話を転換させるために死ぬ。カタルシスを生むために死ぬ。それしか思いつかなかったから死ぬ。ほかにアイデアがなかったから死ぬ。というか、思いつきうる最高のアイデアとして、女が死ぬ。
松田青子『女が死ぬ』より
Destinyという火21のドラマを見ていてぼんやり思い出したのがこの短編の書き出しだった。CMを挟んで闇堕ちメンヘラ化して暴走ドライブをした後、田中みな実演じる女子大生のお葬式のシーンが流れた時に思った。最近のドラマしかりエンターテイメントの色々、田中みな実に「女性性」やらせすぎだろ、と。彼女がドラマに出るようになったのはコロナ禍にやっていた『M 愛すべき人がいて』の頃だと記憶している。あの時の田中みな実は(秘書だったっけな)メンヘラ闇堕ちした後に瞳孔をかっぴらいてウェディングドレスand眼帯でシンバルを叩くシーンをやっていた。文字に起こすとメチャクチャで表記揺れか何かだと思われそうだが本当にそうだった(はず)。その後もいくつかドラマに出ていたけれど、私が記憶しているのは『最愛』。こちらは事件に巻き込まれて最終的に死んでしまうという悲しすぎる女性記者の役だった。彼女は主人公の梨央の「なり得た姿」でもあったので描写する必要はあったと思うが、それにしても彼女の人生ってなんだったんだろう……と思うくらいには切ない話だった。私は彼女の出演ドラマを全部見ているわけでも、みな実買いをする熱心なファンというわけでもないが、Mの時は求められていることに全力で応じるからこその売れっ子なんだなとしみじみ思ったが、アナウンサー時代の「あざとさ」から最近の「みな実買い」含めて、田中みな実はあまりにもメディアにおける女性性のすべてを背負わされているッ……。と意味のわからない虚しさを感じてしまったのである。演者に頼りすぎじゃね?感とでも言った方が良いのだろうか。まだ適切な文脈が見つかっていないけれど、要は話の展開のために簡単に消費されることに納得がいかなかったのだと思う。
これは石原さとみが雑なドラマにキャスティングされる時の感覚にも似ている。彼女はビジュアル面が取り沙汰されがちなタイプの女優ではあるけれど、『シン・ゴジラ』や『アンナチュラル』のような繊細な出力がいる、二次元と三次元の間のようなキャラクターをしている時が個人的には大好きなので、「石原さとみキャスティングしといたったで」みたいな傲慢さの透けて見える制作物にはぐぬぬ……となってしまう。
女が死なないストーリーテリングにする必要はないが、必要に応じた「死」であってほしいとしみじみ思う。一方で、こんな感じなら満足するでしょ(笑)みたいに思われている可能性もあるので、私たち自身も「女死にすぎだろ」って言ってやる必要があるのかもしれない。