書かなくてもいいことを書く。
Twitterをやっているとバズネタというか時事ネタによくぶつかる。だいたいポジショントークなのでふーん、そっか〜、と言った感じで流せるのだけれど、今回読んだnoteがなぜかものすごい刺さってしまった。引用はしないが、大学生くらいの男の子があるお笑い芸人を推して、出禁になる話である。ものすごいストーリーがあった。5〜6年前(それこそ推しという概念が誕生し始めた頃かしら?)にこういうタイプの自他境界性が曖昧なストーカー気質のリレーションシップを書いた小説が流行ってたな……とぼんやり思い出した。(綿矢りささんの『いなかの、ストーカー』、柚木麻子さんの『ナイルパーチの女子会』など。) 別にこれを創作物として消費する気はさらさらないのだが、なんというかnoteに対して派生したコメントの大多数がその内容と人格を否定する、もしくは恐怖するものであり、なんだかなーと思ったのである。
「一度失敗した人はもう二度とやり直せないのか」
このテーマは最近のエンターテイメントでコアメッセージとしてよく選ばれているような気がする。直近で言うと下剋上球児、不適切にもほどがある!がそうだった。やり直してもいいよと言える土壌が必要、寛容になりましょう🎵(ちょっとこのメッセージには言いたいことが結構あるんだが)という漠然とした解を与えてどちらのドラマも終わっている。私の中でも結論つかずな部分があるのだけれど、それが正解なのだと思う。つまり、考える余地を残すこと。選択肢を与えることが必要なのではないかとずっと思っている。少し話はズレるけれどわたしは何か創作をする時や書く時にこれをすごく意識していて、私より若い世代の子が読んだ時にそう思って欲しいな、といつも願っている。
特に件のnoteに関しては同意も理解も同情もできないが、「まだ19〜20歳くらいの子が考えたこと」と思うと、徹底的に叩きのめして排除するのは違うと思う。周りの大人たち、もしくはそれに準ずる人が彼の飢えを満たしてあげることができたらまた違ったのかも、と思う。(ただこれは別界隈のことなのでどのくらいの素養というかしっかりした土壌があるかわからないので高みの見物的な発言だということは留意したい) 思い返してみると10代後半から20代前半なんてそんなもんだと思う。知らんけど。(魔法の言葉)
関連して、同時期に流れてきた同人誌赤字の件もそうで、アンケートを信じたのが悪いだのフルカラーで刷る必要はないだのいろんな「正論」が引用されていた。ごもっともだと思う。それが正しいと思う。けれど失敗を開示した人間に対してやることなのかどうかわからないな、と思ってしまった。
不適切にもほどがある!をはじめ、近頃のエンターテイメント・創作物ではSNSの過激な炎上ややり取りを取り上げることが増えている。私たちは大体「あーあれね」と笑ってシニカルにそれを捉えているけれど、本当はもう笑えないレベルまで、骨の髄までそれが染みているのではないか。もしかしたら自分がその一部だと言うことに全く気づかないくらいには。