2025年3月、桜がきれいだった。
昼休み、市内のおにぎり専門店まで行ってテイクアウトを頼み、電車の見える寂れた公園へと足を伸ばし、散りかけの桜の大樹の下でほかほかのおにぎりをむさぼり食った。あれはたいそう幸せなお昼ご飯だった。
私は短歌をやっている。けれど その時のあまりの幸福感は詠むことは出来なかった。
あのまま永遠に、美味しいおにぎりを食べ、桜のちらちらと散ってくるほの白さとビルの翳りの色と、少し遠い線路の踏切の音と走り行く列車の色と、柔らかな風に抱かれている安心感のような時間を、留めておきたかった。そうは思った。けれど、留めておくことは出来ないと思った。
できるできないではなく、……というよりは、言葉に押し込めて形にしたらきっと目の前のものが変質してしまうだろうことを、私はおそれた。だからそのままを眺め、記憶になるべく解像度を変えずに落とし込むことにした。
そうして、半ばぼんやりと、おにぎりをただ食べて、散り続ける桜をみていた。幸福だった。
私の短歌は画像のレタッチに似ている。
そのものをそのまま映すのではなく、なにかに寄せて、あるいは何かの色に被せて、「目的を持たせて」「見る人の目線により映るように」言葉を選び出す。
それは、画像を編集して、背景に少しのぼかしを加えて被写体をより自然に浮き立たせたり、色味を鮮やかにしたりして、目線の移動を固定したり、という「接する誰かを意識した」作業に近く、ときどき嘘めいていて、それが面白いときもあるのだけれど。
創作ってそういうものだろ、という開き直りのような思いと、個人の強い主観を入れない写実表現のような手法を自分は死ぬまで持てないのではないだろうかという恐れと、両方がある。
それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。創作のなかであっても個人を離れることは難しい、そういうことなのかもしれない、まだよくわからない。
あの桜は、31音に閉じ込めない方が、私の中ではより幸福でより美しく記憶され続けるだろう。
そして来年は、あの公園にはもう行かない気がする。
どんな形であれ、この感じた心地を上書きをしてしまいたくない、そんな気すらしていた、三月末の少しの時間。