退職の日から1か月が経過しようとしている。
FCでの7年間が嘘かの様に、何も変わらない日常を過ごしている。
ゆーみさんが私の日常にいたのも夢だったかと疑うほどだ。
正直、退職してから今まで寂しさを感じた日は無かったと言えばウソになるが、自分が想像していた以上に平気だった。
いない影を追って街中を探すこともないし、SNSを探すこともしていない。
意外と普通の生活を取り戻せているし、吹っ切れているのでは?
と思っていたが、先日の友人からの一言でそんな気持ちの平静も崩れた。
「おまえまだ写真欲しがるくらいには忘れられてねぇじゃん。」
当たり前だ。
6年半の純粋な片想いだ。
そんな簡単に気持ちの片が付くほど生半可な気持ちで好きなわけではない。
この気持ちの重さを自分で分かっていたからこそ、
気持ちが崩れないように、きっと保身で心が蓋をしてくれていたのだ。
だが友人の一言に、不覚にもその蓋をこじ開けられてしまった。
開いた気持ちの蓋が全開になった今、とめどない寂しさの感情が押し寄せている。
こんなにも心臓が痛いのは人生で初めての経験かもしれない。
ギリギリまで潜水で水中に潜っている時や、
全力で持久走を走り切った時とは比べ物にならないくらい、
物理的ではないはずなのに心臓が痛い。
本当に気づかせないで欲しかったし、気持ちを取り戻させないで欲しかった。
ゆーみさんの持っていたPGMの曲が流れるたびに胸が締め付けられるし、
最終日のツーショットを、ただいい写真だと周りに自慢で見せていたのに、
仲のいいジムのトレーナーにFCを辞めた報告と共にその写真を見せたら、
6年半も好きだったんだ、それは寂しいね。と
沢山言われてきた言葉にも強めに一喜一憂してしまっている。
机の上の写真たちを退職日の物に変えて、
退職を知る前に発注したカレンダーは何も知らないかのように、
リリース日の書かれたページを輝かせていて、
忘れられているはずなのに、心の奥ではまだ全然引きずっていて、
それが身辺に表れていて、気持ちの矛盾と必死に対峙してる。
元気かどうか知る術があればまだ違うのかもしれないが、それも叶わない。
毎日話すことがあった話題も、報告する相手がいないと収集すらしなくなる。
悩むことも腹の立つことも多かったけど、
ただ楽しくて、馬鹿みたいに笑って、好きを全身で伝えるかのように満面の笑みを浮かべて漕いで、リアクション欲しさに語り掛けていた事も
全てごっそり抜け落ちていて、
写真を撮るときに、笑えているかな、とか
友達と話していて、こういう話でいいんだっけと一瞬迷いが生じたり、
軋みの生まれた個所から一気に崩れ落ちそうで、自分勝手な我儘だけれど、
切実に会いたいです。