万葉集巻4を眠る前にちびちびと読み返している。大体、いつも巻1から読もうとして難しすぎて破滅するので、今度は相聞歌(恋の歌)がまとまっている巻4を選んで読み進めているのだが、一応15首ぐらいは進んだので、自分の特性を理解したいい着眼点だった。いや4500首中15首読んだぐらいで自慢すなという話なんだけど、それにしても確かな成長である。
それで今のところ面白かった歌をメモしておこうと思ってこの稿を書いている。万葉集巻4の2首目。岡本天皇(岡は旧字体)作、訓読は以下。
「神代より 生れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて あぢ群の 通ひは行けど 我が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み 思ひつつ 寐も寝かてにと 明かしつらくも 長きこの夜を」
訳、「神代から人がたくさん生まれて国を満たし鳥の群れのように行き来しているけれど、私の愛しい貴方ではないから、昼の日がくれても夜が明けても貴方を思って、眠れない夜を過ごしています。」
面白いなあと思った点は以下。
①作者「岡本天皇」舒明天皇なのか斉明天皇なのかわかっていないらしい。斉明は舒明の妻なので二人は夫婦(天智天皇の両親)なのですけど、作った歌がどっちかわからないとかあるのか。作風的に女じゃないか、と言われている模様。
②「神代より生まれ継ぎ来れば」という書き出し。天皇の歌なので、国に人が増えていることも自慢として入れてるのだろうな~と思う。古代には「おおきみは神にませしば」みたいな直球皇国の歌もあって、天皇の王権を確立するぞ!という強い意志を感じさせたりもする。あと「国見」とかを思い出す。天皇が山に登って町の人々の家から竈の煙が上がっているのを見て「よしよし」と思うことなのだが、天皇の権威を示す行為だそうだ。人口の増加や民の豊穣が王の徳になるという概念がこのころの王朝にすでにあるんだなあ~と思うと大変なロマンを感じる。そもそも、我々より1500年近く前に作られた歌なわけですから、神代は彼らにとってかなり近しいものだったはずなのだが、どんなふうに神代をとらえていたのだろう。
③「あぢ群れ」という表現はどうも水鳥の群れを指すらしい。多くの人が行きかうさまを「鳥の群れみたい」と表現することが歌の言葉として美しいとは私はあまり思わないのだが、この時代は多分違ったわけだ。身の回りに自然物しかない時代だから、物の見え方も異なっていたことと思う。人間を群れる鳥に例えてくるところは、古事記のイザナギとイザナギのやりとりで人を「人草」と表現していたことを彷彿としたりした。鳥や草のように生えたり群れたりするのが彼らにとっての「人」なのだと思うと、支配階級の視線がわかるような気がする。
④そんなにうまい歌じゃなくない?という点。「昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み」で昼も夜も四六時中あなたでいっぱいだよ!と表現したあとに「今この夜眠れない!」みたいなこと言っていて、夜が2回出てくる。この強引さが万葉集の「ますらをぶり」なのだろうか。どちらかというと古拙の美という気がしてくるが。これらに比べると、やはり平安中期以降の和歌はかなりしっかり洗練されている気がする。
⑤歌意の色褪せなさ。「世界にこんなにたくさん人がいるのに誰も貴方じゃないから私は四六時中寂しくて眠れない。」こんな歌詞Jポップ腐るほどありそうだなあと思うし、普遍的すぎる。人間は1500年前から同じことを考えているのだ。ものすごい話であるような気がする。