『セクシー田中さん』は昼間は地味な中年OL、夜はセクシーなベリーダンサーである田中さんと、その田中さんの秘密を知って憧れる会社の後輩女子朱里の二人が、互いに影響し合いながらよきシスターフッドを築いていく素晴らしい物語ですが、実は映画愛に溢れた作品でもあります。
メインキャラクターの二人が映画好きとあって、物語にはたくさんの映画が登場します。例えば田中さんは四十肩になってしまって、踊れない悲しみで家で一人えんえんと映画を見ているというエピソードがあります。最初は『ローマの休日』だったのが『レボリューショナリー・ロード』『ブルー・バレンタイン』になり最終段階では『ミスト』『カッコーの巣の上で』『タクシー・ドライバー』と、だんだんダウナーになっていくそのラインナップはソフトパッケージが見えるだけでも20本以上あり、メジャー作品とミニシアター系作品の混ぜ方も絶妙で、この作家さん相当映画好きだろ!?と思わせるそのコマをじっくりと眺めるだけでも楽しすぎます。
そんななかでも重要なキーアイテムとして描かれた映画が『マダム・イン・ニューヨーク』です。
朱里が恋人未満な年上男・小西との関係に悩み、「甘い言葉や駆け引きより、それ以前に人として…」と愚痴ると、田中さんが今日見た映画に同じようなセリフがあったと、『マダム・イン・ニューヨーク』を紹介します。
“恋はいらないの 欲しいのは尊重されること”
“自分を助ける最良の人は自分“
それを聞いた朱里はそのソフトを借り、一人で見て少しだけ泣いて、“自分を助ける最良の人は自分“という言葉を噛み締めます。
田中さんにその映画のソフトを貸したのは笙野という男性です。落ち込んでいる田中さんのためにセレクトして貸してくれたソフトのうちの一本でした。
笙野はジェンダー規範を内面化した男性として登場し、ベリーダンスを踊る田中さんに対して「あんたいくつだよ なんつーかっこしてんですか 痛々しい」という台詞を吐く最低のキャラだったのですが(笑)、田中さんと親しくなるにつれ、自分自身のジャッジメンタル(決めつけ)(『マダム・イン・ニューヨーク』を見て学んだ英語です)に気付き、人として大きく変化していきます。
『マダム・イン・ニューヨーク』の主人公はインドに住む専業主婦、シャシです。上流家庭で何不自由なく暮らしてはいますが、家族との溝を感じています。それは英語ができないこと。
ビジネスで英語を使う夫はもちろん、子供たちの学校も英語が第一言語で、難なく英語を使うことができる。思春期の娘は英語ができない母親をバカにしています。
そんなシャシが在米の姪の結婚式を手伝うため、家族より三週間早く一人でアメリカに行くことになります。なんとか辿り着けたはいいものの、一人ではカフェの注文さえうまくできない。そんな状況にショックを受けたシャシの目に入ったのは「三週間で英語話せるようになります」という広告。彼女は勇気とお金を握りしめ、その教室の門を叩く――というのが物語の始まりです。
この映画では意図的に夫がシャシに「チャイ!」とか「水!」と命令するシーンを入れてます。それだけでなくとにかく妻を家に閉じ込めておきたい夫の欲望丸出しで、インドの家父長制えっぐ!!!しんど!!!と思うのですが、他人事とは思えない胸につまされるこの感じ……。だって日本だってちょっと前まで「お茶!」って夫が言ったら妻がハイハイと応じてたシーン、よく見たもんね…。というか家庭によっては今もあるかも?と考えたとき、あっ笙野の実家じゃん!!と思い当たりました。
笙野の父親は家の中のことは何もしないタイプで母親はそんな夫に諦めたように従っています。笙野は過去に一度だけ彼女を実家に連れて行ったことがあるのですが、その日の帰り道、彼女は「…お母さん家政婦みたいだったね」とポツリと呟きました。
笙野自身は大学時代に海外を一人旅していたり、海外の映画もよく見てる(ハリウッドに偏らずミニシアター系やインド映画も見てる)し、初めて知る外国の食べものにも興味を示す、わりとリベラルな男性なのですが、それでもジェンダー規範はゴリゴリです。笙野の父親は銀行員で、家庭は男が稼いで女が家事育児をする、いわゆる「男性稼ぎ主モデル」の典型でした。自分が育つ家庭環境の影響は大きいです。それが普通だ、あるべき姿だと思ってしまう。
そしてそんなナチュラルなミソジニーを内包したエリート男性が決定権を持つ立場に立つのが今の日本社会です。ミソジニーの再生産という社会の根深い問題を『セクシー田中さん』は正確に捉えていました。
笙野は『マダム・イン・ニューヨーク』を見てどう思ったんでしょう。家族からないがしろにされるシャシを見て、母親のことを思い出したでしょうか。
悦子さん(笙野のお母さん・原作では確認できなかったのですがドラマではこのお名前でしたのでそう呼びます)は東京滞在中に田中さんと仲良くなります。家庭に長く縛られていたせいで何をしたいのかよくわからなくなってしまった、と恥ずかしそうに言う悦子さんを田中さんは映画に誘います。ちなみにそのとき二人が見た映画は「セールスマン」。夫婦の嘘とすれ違いをテーマにしたイランの名匠アスガー・ファルハディ監督によるサスペンス映画でした。
行きたい場所に来られた、午後に食べた食べたケーキがおいしかった、初めての国の文化に触れた、好きな色のスカーフを見つけた。それはその日、悦子さんに起きたこと。田中さんはそれら「一つ一つは些細でもたくさん集めれば生きる理由になる」ことを悦子さんに伝えます。その言葉は田中さんが朱里から教えてもらった言葉でした。その言葉を聞いて悦子さんは遠くから見るだけだったスカーフを買う決意をします。
笙野がオススメした映画『マダム・イン・ニューヨーク』の素敵なセリフが田中さんの、そして次に朱里の心に染みわたったように、朱里の言葉が田中さんを、そして悦子さんを背中を押していく。この優しいバトンこそ『セクシー田中さん』の一番の魅力だとわたしは思います。
勇気を出して新しい世界の扉を開き、自分の人生を豊かにしたシャシのように、田中さんも朱里も新しい扉を開き続けます。
そして悦子さんの物語はまだ終わりません。シャシは英語と新しい友人を得たことで、自分を尊重してくれなかった家族とのひび割れた絆をもう一度つなぎなおす自信を得ました。悦子さんはどうでしょうか。長年自分を顧みなかった夫との修復は可能でしょうか。
母親を「家庭の犠牲になった」と考える笙野は母の変化をどう受け止めるでしょうか。そして笙野自身はどう生きるでしょうか。
この物語の続きは読む人それぞれで想像するしかなくなりました。
コミックス未収録の最新話は電子で読めますが、わたしは今はまだ、それを読む気持ちにはなれません。
『マダム・イン・ニューヨーク』を見て、そして『セクシー田中さん』を読み返して、ほんとうに芦原先生は映画が大好きだったんだな、と思いました。映像作品の持つ力を信じていたんだと思います。だからこそ、……と考えてまた泣いてしまいました。
まだ少し情緒が不安定です。
だから落ち込んだ田中さんのために笙野がセレクトした映画を、わたしもひとつずつ見ようと思います。それらはきっと芦原先生の大好きな映画だろうと思うから。
最後にその映画リストと現時点での配信サイトを置いておきますね。
芦原妃名子先生のご冥福を心からお祈りします。
素敵な作品を、ありがとうございました。
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笙野リスト(配信サイトは2024年2月時点)
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