ばけばけとばけばけな本の話(その7)

hinata625141
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公開:2025/11/16

第7週「オトキサン、ジョチュウ、OK?」

ついにトキがラシャメンになることを決意しヘブン先生の家に通い出す月曜日から、ヘブン先生が求めていたのはラシャメンじゃなくてただの女中でした〜ダキタクナイんだって〜と全員でずっこける(ずっこけません)金曜日まで、ワンイシューながらもトキと家族たちの複雑な感情が豊かに描かれた一週間でした。

ばけばけのシナリオが掲載された雑誌「ドラマ」

ばけばけはドラマのテンポが良いですよね。テーマを詰め込みすぎない。だからトキ演じる髙石あかりちゃんの表情をじっくりと見せてくれる間がある。それでいて不思議と15分間の一秒たりとも見逃したくないと思わせてくれる魅力がある。

今週前半で描かれたのは覚悟はしたものの実際にラシャメンになる、お金と引き替えに言葉も通じない相手と性行為をすることへの恐怖でした。抜け出たままの布団の生々しさ、ローアングルから見上げるヘブン先生の〝異人〟感。ヘブンが寝所に来るのをトキが顔を強張らせて待っていた時間はまさに怪談、ホラー映画ばりに緊張感たっぷりで描かれますが、トキは何されることもなくあっさりと帰らされてしまいます。

そしてその帰り道、トキたちの住む天国町の夜の顔がこのドラマの中では初めて描かれます。トキはこれまでだって夜の天国町を歩いたことはあるだろうし遊郭の様子も見ていたでしょう。だけどそれはそういうものだし、自分には関係のないことだと思っていたと思います。だけどこの夜初めて、(まだ未遂だとしても)金銭と引き換えに身体を売るということが自分にも降り掛かってきたことを実感して動揺します。この遊郭をトキが早足で駆け抜けるシーンは台詞もモノローグもなく、ただトキの表情によってのみその動揺を想像させてくれました。

そして今週は三之丞の弱さと愚直さについても考えさせられました。このドラマの脚本はふじきみつ彦さんという男性の脚本家ですが、男らしさからこぼれ落ちていく男性を描くのがとてもお上手だなと思ってます。

三之丞は両親から目にもかけてもらえない(と本人は思っていた)三男でした。ドラマではカットされていましたが、シナリオ(「脚本の月刊誌ドラマ11月号」掲載)では、コレラに罹患して療養してたこともあり見合いの口もなかった、と自嘲するような台詞もありました。三男として家庭の中で顧みられない存在のまま、家庭の外に生きる道を見つけることもできず、大人になりきれなかった人、それが三之丞だと思います。

せめて狡ければよかった。トキが渡した金を自分の稼ぎのように装い、なんだったら自分から無心に来るような、そんな狡さがあれば。もしくは長男のように、家族を捨ててでも生きのびようとする活力があれば。

なのに三之丞は迷いに迷った末、「自分の力でなんとかしたい」とか何とか言ってトキに金を返しに来ちゃうんです。ぐ、愚直〜〜〜!もうだめだ、いい子であるのは間違いないけどほっといたら死んじゃうわこの子!三之丞、成人してると思うけど中身がマジで子ども!!

「物乞いだよ!?」「冬が来たら生きていけないのわかっちょる!?」トキのブチギレはほんとうにそのとおりで、なんでこの期に及んで〝そうあるべき〟な自分にすがれる余裕があると思うのか。そのへんのちぐはぐさが、ほんとに子どものままなんだな……と物悲しくなりました。

わたしを見て、とトキは言います。自分を捨ててラシャメンになる覚悟をしたわたしを見て、と。だからお前も自分を捨てろとそう迫るシーンのトキは完全に三之丞の〝姉〟でした。

わたしを見て、といえば『マッドマックス 怒りのデスロード』の有名な台詞〝Witness me〟を思い出します。ウォーボーイズであるニュークスが最初にそれを言ったのは暴君イモータン・ジョーへの忠誠を示しマックスを道連れに自爆しようとしたときでした。それはひたすらに自分の名誉のための行為でした。しかしなんやかんやで生き延びたニュークスは心を通わせたケイパブルと彼女の仲間を守るため、ふたたび死を覚悟して口にします。〝Witness me〟と。愛するもののために自分を捨てる覚悟。

思えば今週はトキが女として誰かの所有物=〝モノ〟扱いされることへの心中の抗いが描かれた週でもありました。『マッドマックス 怒りのデスロード』で女たちがイモータン・ジョーに突きつけたスローガンは〝We are not Things(私たちはモノじゃない)〟!……ふじきさん、もしかしてMMFRお好きです???

また、今週はフミさんも本当に良かったです。娘トキの異変に気づき、代わりに怒り、不安に寄り添う母親らしさと、しこりのように残る実の母・タエへの嫉妬。最後の三之丞への一喝もかっこよかった。隙を逃さずキャラクターの多面性を描く脚本も、それを嬉々と演じきる池脇千鶴さんも大好きです!

来週は演者さんたちが口を揃えて楽しみだと言ってるスキップ週なのでますます楽しみです!


●ばけばけな本(7冊目)

『火垂るの墓』(野坂昭如)

今週の三之丞、明らかにマジで生きるか死ぬかの瀬戸際なのにそれをリアルに感じられてない、流されるままな浮遊感に既視感があって、それが『火垂るの墓』の清太だって思い当たり、映画は何度か見てるんですが原作を初めて読んでみました。わたしは野坂昭如さんの小説を読むこと自体初めてだったんですが、一文が長く、でもリズミカルな文体が独特で面白い。

明治と昭和の戦中では全然違うだろうと最初は思ってましたが、洒落にならない貧困具合と福祉の不在は同じでした。親を失い自分の力でなんとか生きようとした清太に差し伸べられる社会の手はありません。

学校からかえると父から送られた上海製のチョコレートが郵便受けにあったり、少しお腹こわせば林檎をすってガーゼでしぼって飲み、えらい昔のように思うけど、おととしまではなんでもあった、いや二月前かて、お母ちゃん桃を砂糖で煮たり、カニ罐を開けたりしとったのに、甘いもんいらんいうて食べんかったヨーカン、臭いいうて捨てた興亜奉公日の南京米の弁当、黄檗山万福寺のまずい精進料理、はじめて食べたスイトンの喉を通らんかったこと、夢みたいや。

「おととしまではなんでもあった」という一文に、たった数年で坂道を転がり落ちるように清太と節子の経済状況が悪化していった様子が伺えます。それはたぶん清太と節子だけじゃなく。

清太やタエ、そして三之丞も、外野から見れば正しい行動をとってるようには見えません。清太はすべてを我慢して親戚の家に居続ければもしかしたら生きのびれたかもしれないし。タエや三之丞も「家の格」など捨てて必死に働けばトキの力を借りずとも生きられたかもしれない。

だけど人はいつだって正しい道を選択できるわけじゃない。むしろ貧困によって追い詰められるほど、長期的な展望が持てず目の前の日々をただやり過ごし、選択肢も見えなくなってしまう。なにより「おととしまではなんでもあった」環境からその日のごはんさえ手に入れられないような状況への急激な変化にうまく対応できないことは責められるべきことでしょうか。

うとうと寝入る節子をながめ、指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか、

食べたくないものは捨ててた子どもが、指一本切って食べさせようかと思うまでの数年。その落差と転げ落ちる速度にリアリティを感じゾッとしてしまうのは、現代の日本もまた急激なインフレで、以前は買えたものが買えなくなりつつあるからかもしれません。

自分でどうにもできなくなった人が死を待つのでなく、公的な助けを得られる社会であってほしいし、たとえそんな社会であっても戦争がはじまればきっとさまざまな福祉制度も形骸化してしまうでしょう。だから戦争は絶対にだめ、と当たり前のことを言い続けなかればならないよな〜とあらためて思いました。

ひさしぶりに読む戦争文学、つらかったけど本当に読んでよかったです。(ちなみに併録の「死児を育てる」という短編はまるで「火垂るの墓」の双子のような短編でなんだったら火垂るよりきっつい作品でした…😭)

@hinata625141
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