モンペ姿で河原に座る猪爪寅子が新聞を広げ、交付された新憲法の第十四条を見つめて涙するシーンから『虎に翼』は始まる。
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
『虎に翼』の主役である猪爪寅子のモデルである、日本初の女性弁護士、三淵嘉子さんはこの新憲法を初めて読んだときの感激を振り返ってラジオ番組でこう語っている。
私の一生の中で一番素晴らしい瞬間でしたね。男女平等だって言われたときに。だから本当に憲法が女性のためだけじゃない、人間が平等になったなんてということは、今の方にはわからないと思う。本当に平等じゃなかったんですもの。だからあれだけでも本当に憲法というのは日本の社会を新しい人間らしい社会にした大きな力だったと思いますね
このインタビューを聞いて思い出したのはベアテ・シロタ・ゴードンさんのこと。
ベアテ・シロタさんはウクライナ系でヨーロッパと日本で育ち、終戦の年にアメリカで国籍を取得した女性で、GHQのスタッフとして日本国憲法の、人権や女性についての項目で草案を作った人だ。
ベアテさんは著名なピアニストであった父について5歳半からアメリカンスクールを卒業する15歳まで日本に住んでおり、日本語が堪能で(当時アメリカで日本語が話せる人は100人もいなかったそう)日本社会のことをよく知っているなど、戦後の日本を統治するGHQにとってはうってつけな人材だった。そして彼女は、戦前の日本女性がどういう立場にあったかをよく知っていた女性でもあった。
ベアテは幼い少女から高齢の女性まで、あまりに多くの女性が、夫や父や息子や親戚の男性に完全に服従し、彼らの後ろを歩いてきたのを見てきており、このような状況を変えるために自分にできることがあればやりたいと決意していた。(『ベアテ・シロタと日本国憲法 父と娘の物語』より)
ベアテさん自身もまた、卒業後に記者として働きたくてアメリカのTIME誌に入ったものの、当時女性はリサーチアシスタントしかやらせてもらえなかった。そのとき培ったリサーチ力が憲法草案にも役に立ったが、女性だからアシスタントと役割が決められていた、自分自身が経験した女性差別も草案作成に影響を与えただろうと思われる。
GHQから憲法草案を急ぎ作るよう命じられた民政局の中で、ベアテさんは人権に関する小委員会の一員となり、女性の権利を担当した。彼女の草案は第14条「法の下の平等」第24条「家庭生活における個人の尊厳」「両性の本質的平等」のもととなったと言われている。
私は、女性が幸せにならなければ、日本は平和にならないと思った。男女平等は、その大前提だった。(『1945年のクリスマス』より)
ほかにベアテさんは児童の医療無償化や妊産婦の権利保護など社会保障についてもたくさん草案を書いたが削除されてしまった。社会保障についてはアメリカの憲法にもないし(ヨーロッパの憲法にはあった)、民政局の中でも決定の場にいたのが40才以上の男性ばかりだったことも大きいとベアテさんは考える。もしこれらが憲法に盛り込まれていたらどれだけの女性が助かっただろう。
そもそも民政局で憲法草案に携わったスタッフには女性は四人しかおらず、しかも日本政府との大詰めの協議の場には女性はベアテさん一人だったという(そのベアテさんもそもそも通訳として呼ばれていた)。日本側は「日本には女性が男性と同じ権利と持つ土壌はない」などそんなひどい発言もあったそう(ありそう!)だが、ここにいるミス・シロタが書いた草案だと民政局側から明かされると日本側も承諾せざるを得なかったという。政治的な場に女性がいることの必要性を痛感するし、そのうえでそこにいたのがベアテさんであったことが日本人女性にとってどれだけラッキーなことであったか……としみじみ思う。
当時ベアテさんは22歳で法律の専門家でもなかったことから、彼女が草案に関わっていた事実は90年代なかばまで明かされなかった。もし三淵さんがその事実を知ったらどう思っただろう。その草案を作ったのが自分より若い女性だと知ったら。
わたしがベアテさんについての本を読もうと思ったのは、小説家の柚木麻子さんが講演会で、女性差別を撤廃した憲法作成に携わったベアテさんが徹子の部屋に出た伝説の回があるのでYouTubeかなにかでぜひ見てください、と話されてたのがきっかけだった(YouTubeにはなかったけど検索したらフルで見られました)。
『徹子の部屋』では徹子さんがまず最初にベアテさんに「日本の女性を代表してお礼を言いたい」とおっしゃられたことに胸がいっぱいになる。ベアテさんは日本で過ごした子供時代のことから、戦時中のこと(彼女はアメリカにいたけどご両親は終戦までずっと日本にいた)、もちろんGHQと憲法草案についてのお話もたっぷりお話されていた。憲法草案に携わった人が当時のことを語るというだけでも歴史的に重要な映像なのだけど、それだけでなくベアテさんと徹子さんというすばらしい女性二人のおしゃべりに癒やされる。こういうのは番組がきちんとアーカイブしてほしいな。
徹子さんが生まれた1933年、ベアテさんは小学生で大森のドイツ学校に通っていた。そしてそのころ、三淵嘉子さんは明治大学専門部女子部法科二年生だった。そして嘉子さんが司法試験に合格した翌年、ベアテさんはサンフランシスコのカレッジに入学する。さらにその翌年あたりに徹子さんはトモヱ学園に転校したはずだ。戦争がひどくなって嘉子さんと徹子さんもそれぞれ疎開したが、終戦直後の1945年、ふたたび三人は東京に戻ることになる。
ベアテさんはGHQ民間人要員として日本に赴任、翌1946年から憲法草案に携わる。同年、憲法が交付されたのを見届けて1947年に帰国した。そして嘉子さんが司法省人事課に「裁判官採用願」を提出したのもまた1947年だった。すぐの裁判官採用は叶わなかったが、司法省職員として採用された嘉子さんは民法改正の仕事に携わる。それはベアテさんの残した「男女平等」をうたう新憲法に合わせた改正だった。見えないバトンがベアテさんから嘉子さんに渡されたようだ。
また『虎に翼』には民政局のアルバート・ホーナーというユダヤ系の人物が出てきて同胞がたくさん殺された悲哀が語られたが、ベアテさんもユダヤ系であり、生前は一度もドイツに足を踏み入れず、子どもたちにもドイツ語だけは学ぶことを許さなかったそう。
『徹子の部屋』でもちらりと名前が出てきたが、ベアテさんは婦人運動家の市川房枝さんとも親交があった。1952年、大統領選挙運動を見ることとアメリカの婦人運動の視察に来た市川さんの通訳として全米を一緒に回ったという。アメリカもまだ第二次フェミニズムより前で男女差別も人種差別もひどい時代だった。パワフルな市川さんのスピーチはそれまで日本人女性を見たことすらなかったアメリカの女性たちをも引き込んだという。
ちなみに三淵嘉子さんが法曹会を代表してアメリカの家庭裁判所を視察目的で訪米したのは1950年だった。その年のベアテさんは銀行の翻訳の仕事をしていたそうで、もし三淵さんの渡米が二、三年後だったらお二人は会ってたかもしれないなぁなんてことを想像する。
一方、ベアテさんと徹子さんは過去にアメリカで会ったことがあると番組で話されていた。アメリカのジャパン・ソサエティで両国のアートの橋渡しとして働いていたベアテさんの関わるイベントで、NYにいた黒柳さん(留学中のことかな?)が日本語で漫談を披露したことがあったそう。またベアテさんが子供時代住んでいたのは乃木坂で、徹子さんの生家もまた乃木坂であったり、ともに父親がプロの演奏家であったりと、ふたりには共通点が多い。
日本女性初の弁護士となった嘉子さん、日本国憲法に女性の権利を書き込んだベアテさん、ユニセフ親善大使として子どもたちのために活動する徹子さん。それぞれ10歳ずつくらい年が違うのだけど、確実に同じ時代の東京の空気を吸っていた女性たちなんだなぁと考えてしみじみしてしまう。
権利も平等も自由も平和も、こうしていろんなひとの手を渡って少しずつ広がって、今現在のわたしたちの手にある(そして今も手にしてない人もいる)。その大事さを知るためには、それがなかった時代のこと、それを求めて闘った人たちのことを知ることが一番かなと思う。だからこそ、ベアテさんの言葉をそのままお茶の間に届けてくれた『徹子の部屋』にも、憲法と権利の話を見事なエンターテイメントとしてたくさんの人に届けてくれた『虎に翼』にも、感謝してもしきれない想いでいっぱいだ。
(引用文献)
『1945年のクリスマス』(ベアテ・シロタ ゴードン/構成・文=平岡 磨紀子)
『ベアテ・シロタと日本国憲法 父と娘の物語』(ナスリーン・アジミ/ミッシェル・ワッセルマン/訳=小泉直子)
『三淵嘉子と家庭裁判所』(清水聡=編著)