AIのつくる文章について今思っていること

hinata625141
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公開:2026/1/8

このところ生成AI という文字を見ない日がない。

生成AIを利用した小説や漫画が賞を受賞したり取り消しになったり、官房長官の記者会見のフェイク動画が出回ったり、最近ではとくにX搭載の生成AI、Grokによるディープフェイクポルノ問題が大きく批判され、規制を求められている。

わたしもそちら方面に詳しくないのでわからないことも多いのだけど、生成AIの根本的な問題はAIに学習させた「教材」がインターネット上にアップロードされているあらゆる情報であることで、写真であったり絵であったり文章だったりするその情報の一つ一つの多くは著作権や肖像権を有しており、つまり生成AIによえる制作物は常に「著作権、および肖像権の侵害」の疑いがあること、だと理解してる。

ビジネスでの文書作成や個人的な相談相手など生成AIをカジュアルに使ってる人も多いと聞くけど、わたし個人はお試しくらいでしか利用したことがない。もちろんこれから先、必要性を感じたら使うこともあるかもしれない。だけど普通の検索と比較すると環境負荷がすごく大きいというのも引っかかっていて、よほどの必要性もない今使うことには躊躇があったりもする。

わたしは趣味で読書をする人で文章を書く人でもあるので、やっぱり「AIの書いた文章」が今のこの世界に、そして自分自身にどう影響するのか、がとても気になっている。

おそらくだけど写真や動画、イラストとは違って文章の学習や生成に規制がかかることはないと思ってる(丸コピじゃないかぎり著作権侵害に当たらない)(無許可で読み込むこと自体が禁止される法律ができたらまた変わってくるのかも?)。なのでこれから先もAIの書いた小説や記事は増え続け、精度も上がっていくだろうと思う。

だけどわたしの今現在の漠然とした感触としては、AIの書いたものが巷に溢れれば溢れるほど、人の書いたものの価値が相対的に上がっていくのでは?という気がしている。AIによる文章の総量が一気に増えることにより、人が書いたものが読まれにくくなるということはあるかもしれないけど。

――楽観的すぎるだろうか?


作家でもあり大学の准教授でもあるグレゴリー・ケズナジャットさんはエッセイ『言葉のトランジット』のなかで、学生に出したレポートの課題をAIに入力してみた体験を書いている。そして実際にAIが出したレポートは「驚異的な出来」だったという。

機械翻訳でできた文章にありがちな不自然さを全く感じない。文法はきっちりとしていて、言葉の使い方も適切だ。読みやすいし、消化しやすい。無数の文章に出てくる表現の平均を取っただけにヒネリもトゲもなく、過不足もない。あらゆる意味で、完璧に模範的な文章だ。 

そして生成AIの文章を読んだあとに学生のレポートを読むと、それらは文章から論点まで「様々な形で平均からずれ」ていると感じられたという。

少し冗長な文章も、少し飛躍的な論理も。出だしが強いのに竜頭蛇尾となるものもあり、中盤がやや長引くが結論が余韻を残すものもある。中には論点がちょっとずれているものもあって、その分、減点しなければならない。

彼らが模範的なレポートを書こうとしても、どこかで「粗」が出る。学生の意思なのか、もとから学生の言葉にあったものなのか、どこから来るか分からないけれど、確かに何かが生まれようとしている。おそらくこれから、模範的な文章が今までになく蔓延するだろうが、その中でこれらの「粗」がどこに繋がっていくか、見てみたい。

(『言葉のトランジット』グレゴリー・ケズナジャットより)

大学のレポートは正しさを求められるものだし、エッセイや小説とはまた違うとは思う。だけどわたしはこのエッセイを読んだとき、文章に見える「粗」こそが人が読みたいものではないか、と思った。「粗」にはそれを書いた「人」が見える。そしてわたしはただ書かれた文章だけを読みたいのではなく、その文章の向こうにそれを書いた「人」がいることを感じながら読みたいのだと思う。

まぁそのうちに、AIが書いたことがバレないようにそんな「粗」も学習して表現できるAIが出てくるのかもしれないけど……


もうひとつ、朝日新聞に掲載された小説家の伊与原新さんのAIについてのインタビューもとてもおもしろかった。

科学をテーマに小説を書く伊与原さんだけど、「小説の着想や執筆にAIを使わない」ことを公言されているそう。その理由として、「発想力や筆力も衰えて、自力でものが書けなくなってくる」という恐れに加え、創作の楽しさが失われることについてもこう語っている。

 僕は「小説を書くのが楽しくて仕方ない」というタイプではないですが、創作の過程で、「良いアイデアを思いついた」「気に入ったものが書けた」、そして作品が世に出て「褒められた」という三つの段階で喜びを感じていると思います。自分の頭で思いつくことや、それを文章にすること自体に、喜びがあるんです。もしAIを使えば、そんな喜びが減ったり、なくなったりする。それなら僕はもう、書かなくていい。そう思ってしまいます。仮に、AIがプロットを考えて文章も7~8割まで書くとしたら、僕はその過程が別に楽しくないし、出来たものを褒められてもうれしくありません。

これはほんとそうで、わたしはプロの小説家でもなんでもないけど、自分の頭で考えること、それを文章にすること自体が楽しい。だから生成AIの是非のずっと手前で、一番楽しいところをAIにさせる理由がまったくない、というのが正直なところだったりする。

一方、伊与原さんは「ある程度の質のものを量産すること」を競う勝負では人間はAIに勝つことができず、小説の工業化が進むという暗い予見もする。「量産型の作品でもつかの間楽しめればそれでいい」という読み手が増えれば、まさに小説が「消費物」となると。

それでも伊与原さんは人間の「身体性」に可能性を見る。実際にその場に行って肌身で感じること、「寄り道」によって予想外の情報を得ることは人間だけの強みであること、そしてそれをもとにした作品は人間にしか書けないと言う。

 エッセーで言えば、たしかにAIが完全に考えた旅行記や体験記を出されても、意味がわからないですよね。そういう意味では、受け手にとっても、作品をどんな人が書いたか、というある種の「身体性」は重要なのだと思います。やはり、人類は社会的な動物として進化してきましたから、遺伝子レベルで他の人間に対して興味があるんでしょうね。作品の向こうに人間が見える、書き手という実在が透けて見えるから面白い、ということはあると思います。

文章に限らず表現は、ひとりの人間の経験と思考、人生そのものの上澄みなのだ。その表現の向こうや源泉には、好きで好きでしょうがないという熱意の塊、ひとりでも多くの人に知ってほしいという懸命さ、何気ない体験から得た感情を共有したいという気持ちがある。わたしたちは何の「粗」もない、完璧で模範的な文章を読みたいわけじゃない。文章を読みながら文章の向こうの「熱」を読みたいのだと思う。それが「粗」だらけだったとしても。

そして将来、AIがもっともっと進化して、「粗」も「熱」もある、まるで人が書いたとしか思えない文章を書けるようになって、読み手としてはそれを書いたのが人間かAIかもうわからなくなってしまったとしても、自分の手で書くことの、表現することの喜びは奪われることはない。たとえ自分の作品ががAIより下手であっても手放す理由にはならない。なぜならただ楽しくて書いてるだけなのだから。書く喜びだけは、奪われない。

だからわたしは、読み手としても書き手としてもそんなに悲観してない。破竹の勢いでAIによる作品が増産されても、むしろされればされるほどに、わたしのような一部の人間はどうしたって人の書いたものを求めるし、書くのが楽しい人は書くことをやめないと思うから。

だけどわたしがこうして人が文章に求めるものは何なのかを考えるようになったのも、生成AIがこれほど台頭してきたからこそ。人でないもの(AI)が書いたものを読み、その違和感について考えたからこそ、人が書いたものの価値に気付き言語化したくなったのかもしれない。

文字とともに歩んできた長い人類の歴史のなかで、わたしたちは人でないもの(AI)が書いたものを日常的に読む第一世代になる。わたし自身は人が書いたものにこだわりたいし自分も何かを書き続けると思うけど、それはそれとしてテキストを巡る社会がどのように変わっていくのかは少しだけわくわくしながら見ている。

@hinata625141
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