誰かの席に座ること

hinata625141
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いつのことだったか忘れたけど、映画館で知らない人と席を替わったことがある。

わたしは一人で、最前ブロックと通路を挟んで前から二番目の中央ブロックの一番前の列に座って映画が始まるのを待っていた。出入り口からは段差のない列だ。たまたま早く着いてまだ劇場内も明るく、スマホを見ながら時間を潰していると、出入り口の方で杖をついた男性がスタッフになにごとか訴えているのが耳に入った。自分が予約したのは最前列の席だが、ここからそこ(最前列は出入り口から数段降りなければならない)まで降りていくのがつらい、このあたりの席と替えてもらいないだろうか、と頼んでいた。このあたり、と男性が指していたのはわたしの座っている列だった。スタッフは、とりあえずこちらでお待ちいただけますか、と言ってその場を離れようとしたけど男性は、もう立ってるのがつらいからとりあえずこのあたりの席に座らせてほしい、とつらそうに重ねて頼んだ。そのやり取りが全部聞こえていたので気の毒になり、とりあえずわたしが申し出て席を替わることにした。男性の予約した席は最前列の端っこだった。あとで改めてスタッフが席までお礼を言いに来てくれた。満席とかでは全然ない状況だったので、そのときに他の席に替えてほしいと頼めばよかったなぁと、映画が始まってから思った。たまたまそこは大スクリーンで、かつスクリーンと客席の距離が近く、最前列だととても見づらかったからだ。

その男性はおそらく、車椅子席が配置されることの多い最前列がいちばん出入り口からのアクセスが良いと思ったんじゃないだろうか。スクリーン内の配置はさまざまだけど、予約時にそこまで把握できなかったのかもしれない。そもそもそのシネコンは都内でも大きい方で、さらにバカでかい商業施設の最上階にある。そしてだいたいのスクリーンは入口のドアからスロープを登ってやっと客席に辿り着く。だから客席に入るまでで体力を使い果たしてしまったのかもしれない。あと数段降りることも無理だと思うほどに。

そんなことを思い出したのは、映画館から来場拒否されたという車椅子ユーザーのポストから巻き上がった障害者へのひどい中傷をここ数日のX(旧Twitter)で見ていたからだ。また芦原先生のことを思い出して怖くなった。同じことを何度繰り返せば気が済むんだろう。

当たり前だけど車椅子の人だって好きな席を選ぶ自由がある。

発端となった件はちょっとまた特殊な話ではあるけど、それでも車椅子の人が利用できないような作りになっている高価なシートをつくりながら、車椅子の席は一番前か一番端っこの数席のみという「選べない」状況をぜんぜん改善しない映画館(しかもミニシアターなんかじゃなく大企業のシネコン)はあまりに冷酷だし社会的責任を果たしてないと思う。

ちなみにTLの議論の中で見たアメリカの映画館の一例では、わたしが席を替わったときにもともと座っていた中央ブロックの最前列を一列まるっと、車椅子ユーザーや介護者のための席にしていた。これでいいじゃんと思う。何よりいちばん見やすそうな席を準備してくれること、それ自体が出かけづらい車椅子ユーザーにとって、ちゃんと一人の客として歓迎されていると感じられるんじゃないか。

そんなことをつらつら考えながら、今日買ったばかりの柚木麻子さんの短編小説集『あいにくあんたのためじゃない』の最初の短編「めんや 評論家おことわり」を読みだしたらこんな一文があった。

どなたも思い立ったらすぐに万全の体調で気軽に外食が出来る方ばかりとは限りません。時間を作り出したり、節約したり、そうしてやっと席に座れた、という方も大勢いらっしゃいますから

人は自分の特権性に気づかない。わたしも今回の騒ぎを見るまであまり映画館におけるバリアフリーのことは考えてなかったと思う。こんなに利用してるのに。そんな程度だ。

「誰かの靴を履いてみること」という言葉を知ったのはブレディみかこさんの本だが、その文章はまだインターネット上にあって読むことが出来る。「誰かの靴を履いてみること」は「empathy=他人の感情や経験などを理解する能力」のこと。それって今の社会に(抜きん出てXに)足りないもの、だよね。

もちろんそういうものに期待してても埒が明かないので法整備が必要、というのもわかる(し、法整備も実際必要な)んだけど、少なくともわたし自身は「誰かの靴を履いてみること」を諦めたくないし、まわりにもそういう人が増えてほしい。そのためにもまずは、当事者の声をジャッジするのではなく、まずちゃんと聞いて、いっしょに考えたいなと思う。

「誰かの靴を履いてみる努力を人間にさせるもの、そのひとふんばりをさせる原動力」それは「善意に近い何か」ではないかとブレディみかこさんはエッセイの最後に綴っている。「善意に近い何か」、そういうものを持っている人になれたらいいなと思っている。

@hinata625141
感想文置き場。たまに日記。