月曜からくたくたなんだけど…😭と半泣きになりながら録画で今夜の「100分de名著 for ユース」石垣りん編を見た。
昔から詩には苦手意識があった。わからない、でもわかりたい。そうずっと思っていた。短歌集を読んだり(短歌は比較的わかりやすい)、詩人のエッセイや評伝を読んだり、その周辺をうろうろとしていて、やっとあるとき出会った。あるひとつの詩と、恋に落ちた。
それが石垣りんだった、ということではない。だけどひとつの詩と出会ったことで、その他の詩への道もひらけた、と思う。細々ながら自分なりの詩の世界を広げている。
石垣りんの詩はとても良い。さっぱりとした言葉でユーモラスな世界を構築しながら、その痛みが、やりきれなさが、しずかに伝わってくる。何より代表作「表札」は表札に掲げておきたいほど、たくさんの誰かの人生に伴走してくれる名詩だと思う。わたしにとっても。
石垣りんはこう言う。
書くことと働くことが撚り合わされたように生きてきた
と。男女雇用均等法なんてない時代に、石垣りんは結婚することなく銀行で定年まで働いた。家族を支えるために。彼女が家を出て一人暮らしをしたのは、自分のためだけの「表札」を出したのは、定年の5年前だったという。
自分の内面にありながらはっきりとした形をとらないでいたものが徐々に明確に出てくる、あらためて自分で知るといった逆の効果が、詩を書くことにはあるようです。
これは石垣りんのエッセイからの引用で、それを受けてこの番組の指南役である文月悠光もこう語る。
「あっ実は自分こういうことを思っていたんだ」とか「こういうことに対して自分は怒りを持っていたんだ」っていうのが、詩の状態になって初めて作者自身も知るということがあるんですよ。
詩の言葉を通して自分自身の言葉を探求したり、知ることができるっていうのが詩を書く効用のひとつだと思うんですね。
でもこれは詩だけじゃなく、文章を書くっていうのが、そもそもそういう効果があるかなって思う。日記や二次創作なんかでも、書きたいことのイメージはあっても、実際に言語化するときにその言葉や表現について精査して、自分の感覚によりフィットする言葉を探し続けると、最初にぼんやり思っていたゴールと違う場所にたどり着くことがある。そしてやっと、あっこっちだったなって、わかる。だから自分が思っているほど、頭のなかではちゃんと答えに行き着けてなくて、言語化することによってやっと自分なりの答えに行き着くことができる。なんであれ書く人は、多かれ少なかれその実感はあるんじゃないかな〜と思ってる。
ちなみに講師の文月さんの詩も好きです。最新詩集『パラレルワールドのようなもの』の表題作、読んでノックアウトされてほしい。エッセイも面白くて大好き。
最後に、生前のインタビュー映像から書き起こした石垣りんさんの言葉を置いておきます。石垣りんが、ただひとりの石垣りんでいられた場所。
私はもう人目ばっかり気にして、働いたその最初のときからいつも、いつも人の心をはかり、顔色をうかがって、言われたことを言うなりにして、本当の思っていることを表現する場所がなかったわけですよね。仕事の上では。そのために、本当に自分の言葉が欲しかったんじゃないか。これだけは、どんなことがあっても言いたい、言うからにはどんな目に遭ってもいいって、そういう思いで、結局のところ、そういう気持ちがふだん何にも言わないけれども、詩を書くときだけは、まったく何物も恐れないと言っては大げさだけど、書いちゃったんだと思います。最低その程度の覚悟はあったと思うんですけどね。