第11週「女子と小人は養い難し?」
女を馬鹿にすることわざのバリエーションの多さよ……最後まで見たら全週タイトルを一覧にしたい。きっと壮観でしょう😂
今週は本当に濃かったな〜。残酷な別れもあれば待ちに待った再会もあった。ざわざわと心が落ち着く間もなく、家庭裁判所設立までの慌ただしい日々がぎゅぎゅっと描かれた一週間だった。
無意識の決めつけをあらわにする轟のセクシャリティ
よねさんの「ほれてたんだろ」には率直に驚いた。まっっったく気づいてなかったから。そして自分がまったく気づいてなかったことには無意識の決めつけがあったのだと気付かされた。もし轟が女性だったなら、調子に乗る花岡の言動を真剣に諌めたり、突然婚約者を受けて現れたことにショックを受けた様子を見ただけで、あぁ彼女もまた花岡のことが好きだったんだなと察したんじゃないだろうか。なのにわたしはその可能性を除外してた。
もうひとつ、轟がいわゆる「男らしい」タイプだったこともまた、自分の中に無意識の決めつけがあったことを気付かされる。もし轟を演じたのが志尊淳さんだったらどうだっただろう。日本のドラマでゲイ男性といえば彼のような物腰の柔らかいタイプか、もしくはわかりやすく女性らしい喋り方をする”オネエ”タイプのどちらかであることが多い(その偏った表象に問題はあるけど)。それにすっかり慣れていたからこそ、そのどちらでもなかった轟の感情に気付けなかったんじゃないか。
あなたが気づかないだけで、あなたの決めつけによっていないことにされてるだけで、そこにいるんだよ、と言われたような気がする。脚本の吉田さんが繰り返し、透明化された人のことを描きたいと言っていたことが、脚本と演出を通してきちんと作品になっていた。透明化するとはどういうことか、視聴を通して痛感した。そのことがほんとうにすばらしかったなと思う。
この当時、同性愛はもっと禁忌だっただろうし、轟もそんなこと思ってもみなかったと思う。だからこそ轟はすぐにそれがそうだとは認められなかった。だけどジェンダーロールから遠いところにいるよねが、自分をちゃんと思いやってくれると信頼できる言葉をくれから、ごまかさずに本当の、自分の中にある花岡への思いを言葉にして話せたんだと思う。あのシーンは本当に良いケアの場面だった。
轟の同性愛的感情を描く必要があったかという問いに対しては、わたしは、あった、と大きく頷きたい。わざわざ描かないと、それはなかったことになってしまうから。ずっと隠さなければならない存在で、隠さなければならない感情だった。だからわざわざ描かないと、見えなくなる。そして存在しなかったことになる。堂々と存在する異性愛とは同列には語れないよね。
脚本家の吉田さんが早い段階で(その日の昼放送後に)轟の花岡への気持ちは恋愛感情であったと明言してくれたのも良かった。「ほれてるんだろ」に対しては轟は「わからない」と答えたとしても(時代背景を考えると妥当なリアリティラインだった)、そのあとに続くセリフで特別な感情であることはちゃんと表現されていたと思うけど、それでもやっぱりそれをなかったことにしてしまう感想が出てくることは吉田さんも当然予期していたんだろう。見た人全員が誤解しない表現も、だれも傷つけない表現も存在しないけれど、マイノリティ問題に触れるときはいくらでも言葉を重ねていい。「わかりやすさ」こそが立場の弱い人を傷つける。いいかげんわたしたちはそのことを学んで、わかりにくくても、くどいと言われても、ただ愚直に言葉を重ねるしかないのだ。
名前を奪われつづける人、ヒャンちゃん
6人で行った海辺のシーンは本当に美しかった。薄曇りの空にグレイがかった海。思うようにいかないね、わたしたちはいつもそう、と笑い合う。砂の上に書いたハングル「최향숙」。「チェ・ヒャンスクです」と本当の名を名乗ること。「ヒャンちゃん」と呼ばれて笑うこと。そのすべてが美しかった。
わたしもこれからはヒャンスク、もしくはヒャンちゃんと呼ぼうと思う。そしてまたぜったいにこの物語にカムバックしてほしい。
(第6週のふりかえりより)
この物語にカムバックしてきたヒャンちゃんは固い表情で寅子に向けてこう言った。「その名前で呼ばないで」と——。
朝鮮で「崔香淑(최향숙)(チェ・ヒャンスク)」という名前で生まれ育ったヒャンちゃんは日本に留学するにあたり、「崔香淑(さいこうしゅく)」と日本語読みの名を名乗ることになる。そしておそらく帰国したのが1938年、1940年の創氏改名制度と結婚のどちらが早かったのかはわからないけど、彼女は「汐見香子」として日本に戻ってきた。出自を隠し、日本人として生きるために。
植民地化すると一言で言っても、されるほうにとっては社会の人生も一変し不自由な方に追いやられる恐ろしいまでの理不尽さがある。言葉も名前も文化も、そして人によっては土地も仕事も奪われ経済的にもぼろぼろになった。日本の敗戦は朝鮮人にとって悲願である祖国の解放だったのだ。
日本人として、日本語を学び、日本語読みした名を名乗り、日本の法律を学ぶことでサバイブしようとしたヒャンちゃんが、今度は日本の敗戦によって「日本人」ではなくなり「朝鮮人」であることが突きつけられてしまう。もちろん戦前だって差別はあっただろうけど、敗戦によってとくに朝鮮に対しては後ろめたさがより強い差別心として向けられたんじゃないだろうか。また、たとえ朝鮮に残ったとしても、ヒャンちゃんは「親日派」としてむずかしい立場に立たされただろう。
ヒャンちゃんは今度は名前だけではなく出自までも隠して生きることを決断する。まるでそれが恥ずかしいものであるかのように。ここはヒャンちゃんにそんな悲しい決断をさせてしまう社会であり、国だった(過去形ですらない)。日本で生き抜くため、彼女のように通名を使ったり日本に帰化した在日朝鮮人はたくさんいた。彼ら彼女らもまた、この社会で透明化された人たちだったのだ。
ヒャンちゃんのことは、これからもいろいろあると思うので見守りたい。それはそうとして!実家とは縁を切った状態で初めての出産に挑まなければならない状況なんて、トラちゃんが忙しいならわたしが手伝いに行くよーーー😭という気持ちです。どうか無事に出産がすみますように、そしてはやくみんなで竹もとに集合できますように…
「わたしになにかできることがあるのでは」という気持ち
今週、むずかしいボール投げてくるな〜と一番思ったのが寅子というヒロインの描き方だった。
ヒャンちゃんのこと、花岡のこと。「わたしになにかできることがあるのでは(あったのでは)」そんな寅子の思いが空回りしているようにも見えた。実際、寅子にできることなど「そんなもんはない」と多岐川に一蹴され、家族がなにもできなかったのに寅子がなにかできたとしたら「妬いちゃうわ」と柔らかく否定しつつ、いつぞやのチョコレートの礼を述べる奈津子さんは寅子よりずっと大人に見えた。
ふと思い出したのはカーネーションの糸子のことだ。戦時中、戦地から一度戻ってきた幼馴染の勘助がずいぶん気落ちしていると聞いて(今で言う戦地PTSDのような状況だった)、糸子はいつもの感じでがさつに励ましに行くのだが、勘助は耐えられず自傷的な行動に走ってしまう。それを知った勘助の母に「あんたの明るさは毒や!」と激しく罵られる場面があった。
朝ドラヒロインの「明るさ」の否定、と言ってしまうと、そもそも朝ドラヒロインだってひとりひとり違うのだからそんな類型的でもないぞと思うけど、シンプルによかれと思ってやったことが幼馴染を傷つけ、その母親に全否定されるというのはかなりショッキングなシーンだった。
今週の寅子の空回りは、こんな善意からくるおせっかいを、もう少し丁寧にときほぐしたようにも思える。ヒョンちゃんの場合はまわりのアドバイスも聞いて、本人の意向を尊重して、行動に移すのは押し留めた。奈津子さんの場合は考える間もなく会ってしまい、思っていたことをそのまま口にしてしまうという寅子の未熟さも見えた。それでも寅子の「わたしになにかできることがあるのでは」という気持ちを否定するような描き方ではなかった。わたしもそんな寅子の気持ちを傲慢だとは思いたくない。
「わたしになにかできることがあるのでは」という気持ちは、善意でありケアであり、今のわたしたちの社会にすこし欠けているものだ。自分が出る幕ではないのでは、という無言の遠慮は人によっては無関心に見えるし、だれかを孤独に追いやってしまうかもしれない。「わたしになにかできることがあるのでは」という気持ちは尊い。だけどその出力の仕方によっては寄り添いたい相手を傷つけるかもしれない。だからこそ、とことん考えなくちゃいけないんだと、わたし自身もあらためて考えさせられた気がする。
法は何のためにある?
花岡の死の波紋のしみわたるような一週間でもあった。花岡はなぜ死ななければならなかったのか。花岡を死に至らしめたものはなんだったのか。
寅子は「わたしになにかできることがあったのでは」と悔やみ、花岡をバカ呼ばわりする多岐川に食ってかかる。だけど寅子にはなにもできなかった。かつて直属の上司であった桂場もまた、悔いただろう。だから奈津子の絵を購入することでせめて遺族の助けになろうとした。
そしてバカ呼ばわりしながらも花岡に深いシンパシーを感じていたのは多岐川だったのかもしれない。多岐川は法によって殺される人がいるという現実に、その矛盾に耐えきれず逃げた過去があった(このあたりは今もある死刑制度へのクリティカルな視線も感じる)。だから彼は言う。法律は「縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が幸せになるためにある」のだと。だから「彼がどんなに立派だろうが法を司る我々は、彼の死を非難して怒り続けねばならん」と。
法は何のためにあるのか。皮肉にも花岡の非業の死によって照らされたその答えを、同時代に生きた法曹たちは胸に刻んだだろう。と同時に、それを現代から見ているわたしもまた、法は人が幸せになるためにあるのだという多岐川の言葉を驚きとともに受け止めた。法はそこにあるものだとどこか当然にように思ってしまっていた。法は、わたしたちの自由や幸福を守るためにある。そんな法の理念が『虎に翼』を通じてたくさんの人に届いているという、目の前の現実にぐっと来た金曜日だった。
来週は家庭裁判所始動〜!とりあえずヒャンちゃんの手伝いはわたしが行くので、寅子はよねと仲直りしておいてくださいね〜!!!
第10週シナリオふりかえり
ライアン猪爪家に来るのシーン、とりあえず当座のお金と卵持ってきてくれてたの優しすぎ〜!大家族なので卵ありがたいですよ!!一気にライアンの株が上がった!あとワイフが待ってるので〜発言もよかった。ワイフどんな人だろうな〜
花岡と再会したことを寅子が家ではると花江に話すシーンがある。そっか〜一応かつては花岡へのときめきの自覚はあったんだな…けっきょく噛み合わなかっただけなのか?
桂場が「法の水源」って寅子の言葉を使ってる!
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