ひさしぶりにコンタクトを作った。何年か前に眼の病気をして、頻繁に目薬をささなければならなかったのと充血しやすかったのもあって、症状が落ち着いてからもこの数年はずっとメガネ生活だったんですよね。メガネは楽でいい。一生メガネでいい。……と思ってたんですけど、これもその病気の関係で天気が良い日の外のまぶしさにも耐えられなくなりつつあって(というか自転車運転が危ない)、コンタクト+(屋外では)サングラスがベストなんだろうなぁとずっと思ってたんです。思ってはいたけどなかなか腰を上げられなかった。やっと行けました。えらい。それで、今回はひさしぶりだしお試しのつもりもあってワンデーにしてみたんですけど眼科直結のストアで買ったらめちゃ高かった…乱視用だから?目が悪いってコストかかる…😭 そしておためしのコンタクトしたまま家に帰ったら、今まであまり見えてなかったからよしとしていた部屋のあちこちの汚さが目に入り、見えないほうがいいこともあるなってしみじみ思いました(掃除しろ)。そんなこんなでひさしぶりのコンタクト生活にも鏡の中のメガネをしていない自分にもまだ慣れないでいます。
昔好きだった人の作品が好きじゃなくなる問題、ありますよね。昔好きだったものを好きじゃなくなるのって、哀しい。過去のそれを好きだった自分まで否定しなきゃいけないような気持ちになるから。そんなことはないんですけどね。
わたしはわりとゼロヒャク(0か100か)になりやすい人間で、もういいかなって見切りをつけるのが早すぎるんだろうなとこのインタビューを読んで思いました。
隅々まで物語を読み込みながら、特定の描写だけで判断せずに保留するようにしています。「問題あるシーン」で嫌になってしまう気持ちも理解しつつ、それだけで読むのをやめてしまうのは、もったいないんじゃないかと思っているんですね。
なぜなら、物語ってそんなに単純ではないから。その中に含まれているさまざまな要素を抽出していくと、同じ作品内で全く逆の、すごく共感できる側面に出会うことも多いんですよ。すべての作品に対してそうするので、どんな物語でも楽しく読んでしまうのかもしれないです。
そう、そうなんですよね。ダメだなって思っても全部がダメなわけじゃない。好きだとしても100%好きではないように(いや100%好きな場合もありますけど!)。だからダメだなって思うことと、好きだなって思うことは同居できるし、好きだけどこういうところはダメだよねって切り分けて、もうダメだって全部を雑に切り捨てるよりもう少し考えてみたい。
このインタビューの小川公代さんの著作では『ケアする惑星』を読んだことがあります。「ケア」とは、他者へと関心を差し向けること。新自由主義が跋扈する社会の中でその生産性の低さによって貶められている「ケア」の、それでも人が希求しつづける「ケア」の、その意味と存在価値を、古くは『アンネの日記』やウルフから最近では『約束のネバーランド』や高瀬準子作品まで、幅広い作品を引用しながら探っていく面白い評論集でした。
ちょうど朝ドラの『おかえりモネ』についてあれこれ考えてた時期にたまたまこの本を読んで、あぁ『おかえりモネ』は徹底してケアの物語だったんだなぁと読み解くきっかけにもなりました。これに限らず安達奈緒子さんの作品は『100万回言えばよかった』も『透明なゆりかご』『お別れホスピタル』も、そして『きのう何食べた?』もケアが大きな軸になってますよね。
何か起こらなくても、人が人を思いやるだけでドラマになっている。
『おかえりモネ』のプロデューサーである一木正恵さんは安達さんの描く世界についてこう書かれてますが、わたしもほんとうにそう思います。というより、人が人を思うことが一番のドラマで、見ていてグッとくるところです。
だけどそんなケアの物語こそ、そのシーンだけを切り取って見て感動できるわけでもなく、小川さんの言うように、物語の文脈を追い、長いスパンで見つめることによって理解できることですよね。
だから最初の話に戻っちゃうんですけど、ダメだなって思うときはそこばっかり目についちゃうけど、そんなときこそ意識的に他の側面に目を向けて自分の感情を整理したほうが、それまでそれを好きだった自分をケアできるのかなって思いました。何の思い入れもない作品ならともかく、好きだった作品、物語からは自分がもらったものも大きいので、誰のためでもなく自分のために、できるだけ丁寧に見ていけたらな〜と思います。
ちなみに推しが犯罪者になってしまったら…!?という今月公開のドキュメンタリー映画『成功したオタク』がめちゃめちゃ気になってます。
参考