昼から急に降り出したり晴れたり変な天気だった。台風が接近中とのこと。予定通り夕方5時に仕事を切り上げて家を出た。風が強いようなら普通の傘がいいかなと思ったけど、家を出るタイミングでは雨も降ってなかったので折り畳み傘にする。
地下鉄で西へ。渋谷も通り越して目的の三軒茶屋で降りる。三軒茶屋に来るのは久しぶりだ。何年か前にシアタートラムに芝居を見に来た以来だと思う。あまり馴染みのある町じゃない。目当ては書店の「twililght」で行われるトークセッション、荒井裕樹さんの『無意味なんかじゃない自分―ハンセン病作家・北條民雄を読む』と、木村哲也さん編書『どこかの遠い友に―船城稔美詩集』の刊行記念イベントだ。
でもまずは腹ごしらえ!「三軒茶屋 タイ料理」で検索するとさすが若者の街!書店のまわりだけでも数軒ある。どこもおいしそうだな〜と悩んでたらあっという間に時間がなくなってきたので結局最初に見つけた店「イサーン・キッチン」に入った。
お店のインテリアかわいいし掘りごたつ風なカウンターがあるのも落ち着くし、夜でもお一人様用にサラダとスープのセットがあるのが助かる。メインは悩みに悩んだ末、あまり他の店では見かけないラープガイ・カオパット。レモンをたっぷり掛けて食べるのがおいしい。セットのサラダは4種類から選べたのだけどソムタムにしたら、思いのほか量が多いしパパイヤ噛み応えあっておいしい。調子に乗ってビール頼まなくてよかった。これでビールも飲んでたらおなかいっぱいすぎて完食できなかったと思う。

これで1350円だったかな…?夜にしては安いなと思った。


さて本日のメインの書店「twililght」へ!お名前は知ってたけど実際にお店に来るのは初めて。こういう個性派の書店、下北沢の「B&B」や東中野の「platform3」もそうなのだけど、とにかく趣味が合う!としかいえない本の並ぶ棚を見るだけで楽しい。
雑誌や漫画、参考書から料理本まで様々なジャンルがひしめきあう「普通の本屋」は日常に必要なインフラのようなものだけど、こういう「趣味の書店」が存在してくれるのもほんとにうれしい。近所にもこういう店ができるといいんだけどな〜
書店の奥の方のスペースに椅子が並べられてトークセッションの会場になった。満席だそう。
わたしがこのトークセッションを知ったのは実はほんの一週間ほど前のことだった。7月26日、9年前に相模原の障害者施設で事件が起きた日だ。ニュースでもSNSでもやはり目に入ってくるし、さらにその一週間前、7月20日に行われた参議院選挙では急速に世論が排外主義に傾いたのを目撃したばかりだった。あれもこれもしんどいな〜と思い、荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』を読み返していた。
障害者文化論を研究する日本文学者である荒井さんは、障害者差別と闘う当事者たちを記録し伝えながら、言葉の果たす役割について真摯に考え、言語化してくれる人だと思ってる。『まとまらない言葉を生きる』はエッセイだけど、荒井さんが出会った人たちの言葉を引用しながら、どんな社会が生きやすいか、どんな未来を残したいか、ということが語られていて、わたしにとっては読むたびにこれが座標軸だなと思うような一冊だ。
ちなみに荒井裕樹さんを知ったのは、市川沙央さんの『ハンチバック』で知った米津知子さん(障害者差別に抗議しモナリザにスプレーをかけようとしたことで逮捕された)に興味を覚えたからで、その米津さんの評伝『凛として灯る』(とても面白い)を書いたのが荒井さんだった。
『まとまらない言葉を生きる』をパラパラと読み返してから最近はどこか雑誌に寄稿とかされてないかな〜とXで検索したら出てきたのが今回のトークセッションの情報だった。いつかはお話聞いてみたいなとは思ってたものの、こんな急に(1週間後)!しかも平日!と思いつつも、家庭や仕事の状況鑑みてなんとか行けそう…!と思ったので思い切って申し込んだ。
『無意味なんかじゃない自分―ハンセン病作家・北條民雄を読む』はその名の通り北條民雄をテーマにした作品だそうだけど、読むのはこれからなので楽しみ。荒井さんは過去に北條民雄の日記をすべて書き写した(!)そうで、そのおかげで全集などにに入ったいわゆる公式の日記が親友の手によって書き換えられていたことがわかった、というのも本当にすごいなと思った。
船城稔美さんのことはまったく存じ上げなかったのだけど、療養所では「女形のひと」「男色三羽烏」と呼ばれていたように同性愛者であることをオープンにしていた人で、入所した15歳から亡くなる79歳までずっとコンスタントに詩を書き続けた人だいう。とても興味が湧いたので今回発売された詩集をその場で購入した。編者の木村哲也さんは国立ハンセン病資料館の学芸員さんで、どのお話もとても興味深かった。
トークの中で印象に残っているのはマイノリティ文学を論じることの難しさについてのお話だった。例えば作家がセクシャルマイノリティであることが後にわかったとき、作品の評価を変えてしまってもいいものか。作品の中からマイノリティ性を見出そうとする行為は、逆に言えばマジョリティという「標準」を自分の中で勝手に定めているわけで、それだって決めつけではないのか、という問い。
難しいなぁ…と思ってずっとそのことを考えてる。個人的なことであり大事なことだからこそマイノリティ性は作品に溶け込んでいると考えるのは自然だけど、作家以外がそれを読み取ることにはある種の暴力性はどうしてもある。読み方はすべての人に開かれているけれど、それでも決めつけるような言説は警戒したい。
別のお話の中で「書き手である自分を透明化しない」という言葉も出たのだけど、マイノリティ文学を論じるときにもやっぱり、読み手である「わたし」がどう感じたのか、どう受け取ったのかを真摯に言葉にしてあるものを読みたいなと思う。「読み」の正しさよりも、「あなた」にどう作用したのか「あなた」の言葉で聞きたい、というのは、最後の方のお話で出た、人が求めている本の潮目が変わりつつある(ハンセン病文学への注目やZINE人気など)、ということにも繋がっているように思えた。

トーク後、ほんとはサインほしいなぁと思ってたんだけどちょっと時間がかかりそうだったので諦めてお店を後にした。金曜夜の楽しそうな三軒茶屋の街を横目に見ながら駅に向かう。帰りの地下鉄に揺られながら、買ったばかりの岩波文庫『北條民雄集』から「いのちの初夜」を読んだ。
今年の夏は子の学校説明会やらなんやらで慌ただしいのだけど、隙間を縫って国立ハンセン病資料館へも行ってみたいなと思ってる。