『虎に翼』第26週(最終週)ふりかえり

hinata625141
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公開:2024/9/29

第26週『虎に翼』(最終週)

最終週〜〜〜!!!!!終わりましたね……ついに終わりました。制作側はもちろんでしょうが、視聴者側もカロリーを相当消費した半年間でした。完走したみなさん、おつかれさまです!そしてわたしも、半年間レビュー書き続けたぞ〜!先週までの文字カウント、ざっくりですが15万字超えてました(笑) 一つの作品にこんなに書くことはもうないと思います。本当に語るべきことの多い、語りたくなる朝ドラだったからこんなに書けたんだと思います。そんな作品と出会えて本当によかったです!

それでは最終週の感想です!!!長いよ!!!!!


ついに開かれた最高裁への扉。異例の口頭弁論に挑むのは当然、よねだ。ずらりと並んだ15人の最高裁判事、その全員が高齢男性であること。2024年の今でさえ、政府系の会議などはほとんど男性が並ぶこの国でこの時代、と考えれば無理もないのだけど、それでも実際に目にするとショックだ。どうしてこんな状態が長いこと、おかしいと思われずに続いてきたのか。

アメリカの女性法曹のパイオニア的存在であるルース・ベイダー・ギンズバーグ判事はかつてインタビューでこんな話をした。

『最高裁判所に何人の女性判事がいれば十分か』と聞かれることがあります。私が『9人』と答えると、みんながショックを受けます。でも9人の判事が全員男性だったときは、誰もそれに疑問を抱かなかったのです

もし最高裁判事15人が全員女性だったらどうだろう。さすがにそれは偏りが出るのでは、と女性からでも不安の声が上がりそうだ。だったらなぜ全員男性のときはそんな声が出なかったのか。ちなみに2024年現在でも15人中女性は3人しかいない。

ずらりと15人の高齢男性裁判官が並ぶ絵は圧巻だ。いくら扉が開けたとはいえ、その壁はあまりに高く感じただろう。それでもよねは臆せずに立ち上がる。登場したときからずっと同じ、男装姿で。

刑法第200条。尊属殺の重罰規定は明らかな憲法違反です。昭和25年に言い渡された刑法第200条の最高裁合憲判決。その基本的な理由となるのは人類普遍の道徳原理。

はて?

本件において道徳の原理を踏みにじったのは誰か。

最終週に初めてよねの口から発される、寅子の看板である「はて?」。よねお得意の「クソ」も飛び出してさすがに桂場に注意されるも、よねに代わって謝り、小さな声で「行け、山田」とエールを送るのは轟。よねと寅子、よねと轟、それぞれのぶ厚い信頼に泣けてしまう。

憲法第14条は「すべての国民が法の下に平等である」とし、第13条には「すべての国民は個人として尊重される」とある。

もし今もなお尊属殺の重罰規定が憲法第14条に違反しないものとするならば、無力な憲法を、無力な司法を、無力なこの社会を嘆かざるをえない

この世の中は憲法に見合った社会なのか、よねの真摯な問いかけが法廷に重く響きわたる。誰もが聞き入ってしまう、土居志央梨さんのしずかな熱演が本当にすばらしかった😭

先週の感想で、轟が寅子に説明するとき「夫婦同然の生活を〜」と言っていたのを、よねが航一に説明するときははっきり「性処理」というきついワードを使ってたのが印象的だったと書いたけれど、今週法廷でよねは「強姦」「服従と従順な女体であることを要求される」とさらに強い言葉を使った。今なお性犯罪が「わいせつな行為」などと(ニュースでさえ!)曖昧な言葉で表現されること、それによって被害が矮小化されてしまうことへのアンチテーゼのように感じられてよかった。

そして歴史が変わる。

尊属殺に関する刑法200条は、普通殺に関する刑法199条の法定刑に比べ、著しく差別的であり、憲法14条1項に違反して無効である。

昭和25年の合憲判決、その際の最高裁判事であって少数派でありながら反対意見を出した穂高の、そのイズムを受け継ぐ桂場が23年後に最高裁長官としてこの判決文を読み上げるのにはぐっとくるものがあった。

そして一人になったときにやっと口にするチョコレート。穂高イズムを受け継ぐ桂場も、ブルーパージで信頼を失った桂場も、多岐川や花岡のことを忘れない桂場も、甘いもの好きな桂場も、ぜんぶ桂場だった。


そして寅子が向き合うのは美佐江の娘、美雪。

「どうして人を殺しちゃいけないの?」――美佐江のときに答えられなかった質問に、長い時間をかけて考えたことを寅子は語る。「奪われた命はもとに戻せない。死んだ相手とは言葉を交わすことも、触れ合うことも、なにかを共有することも永久にできない。だから人は生きることに尊さを感じて、人を殺してはいけないと本能で理解してる」と。なにより、「わからないからやっていいではなく、わからないからこそやらない。奪う側にならない努力をすべき」と。

美雪の問題からは少しずれるかもしれないけれど、「奪う側にならない努力をすべき」というのは個人的にも最近よく考えることで、現代の問題に重ねた台詞のように思える。お金や権力のある人、ずる賢い人は簡単に「奪える」。それどころか現代、新自由主義の風潮の中でとくに、「奪わない人」で居続けるのは存外難しくて、お金や権力がなくても、ずる賢くなくても、ただ生活してるだけで気づけば「奪う人」になってしまうことがある。

映画『ラストマイル』もそういうことを描いた作品だと思っていて、もう止めることができない「奪う/奪われる」システムに慣れて感情が鈍化していくなか、「やめるんですよ、せーの!で」と言えた、行動できたエレナのその善性によって物語がほんの少しだけ救われる。そんな属人性の高い善性なんて曖昧なものに期待するのは不安でもある。だけど、誰にも押し付けられない人間の善性と、最低限の足かせとなる法律、その両輪によって社会はギリギリ成り立っていて、そのどちらかが欠けてもダメなのかもしれない。

美雪の問題に話を戻すと、寅子が率直に美佐江への対応を間違っていたと認め、美雪に「お母さんが好きでも嫌いでもいい。でも親にとらわれ縛られ続ける必要はないの」と言ってあげたのがよかった。それはよねが裁判後に美位子に「もう誰にも奪われるな。おまえが全部決めるんだ」と言ったことと重なる。美雪も美位子も実の親から心や体を不当に奪われ続けていた。それを解き放つ役割を寅子とよねが担ったのだ。


少年法改正問題については、まあいろいろあったけど時間が解決してくれた、という描き方ではあったけど、現実には対象年齢の引き下げこそ撤回されたものの、検察の介入を強める改正は行われたそう。

だけど家庭裁判所の立ち上げから少年法改正問題まできちんと描いてくれたことで、自分が関わることがなければ知ることもない、少年法や家庭裁判所の理念とその歴史を知ることができたことがほんとうに良かった。少年犯罪といえば報道は重大事案ばかり取り上げて世間の不安を煽るばかりで、そもそもの「未成年をどう守っていくか、それが社会にとってどんな意味を持つのか」の視点がすぽっと抜け落ちているのだと改めて気づかさせられる。

大好きなドラマ『MIU404』でも少年法をめぐってこんな議論があった。未成年でも厳しく対処すべき、と主張する若いエリート捜査官・九重に対して隊長の桔梗が「救うべきところは救おうというのが、少年法」ときっぱりと言う。

九重「少年自身が、未成年を笠に着て好き放題していてもですか」

桔梗「私はそれを、彼らが教育を受ける機会を損失した結果だと考えてる。社会全体でそういう子どもたちをどれだけすくい上げられるか、5年後10年後の治安は、そこにかかってる」

非行少年を救うのは前提として、社会全体、その未来を見る。近視眼的にならない社会への視座がしっかりしているところが、どちらのドラマからも感じられて好きなところ。

今後もセンセーショナルな少年事件が起きるたびにまた少年法が議論になると思う。だけどどんな理念で家庭裁判所が作られたのか、現場の人達がどう少年たちに向き合ってるのか、そしてやっぱりタッキーの顔を思い出して、冷静に向き合いたいたい。とくにこのテーマについては、朝ドラで共有できたのはとてもよかったと思う。


社会の問題と家庭の問題をずっと両輪で描いてきたとらつば。その最終週もやっぱり家族の問題に向き合う。

商売のための駒としか自分を見てくれなかった母から逃げ出してきたはる。そんな母・はるの言う幸せもわたしには地獄にしか思えないと、自分の道を切り拓いた寅子。そしてそんな寅子の娘である優未が、この先わたしは何にでもなれると笑う。女三代のそれぞれの生き方に時代の変化を感じてじ~んとしてしまう。優未だけじゃなく、朋一ものどかも、理想通りとはいかなくてもそれぞれに自分で選んだ道を行って楽しそう。猪爪家の子どもたちもそうだけど、家族であっても他者の自己決定を大事にするのが寅子らしいし、この脚本のイズムだなと思う。

家族は鎖にもなるし、大切な存在にもなりうる。そして家族かどうかの線引は血縁や法的に認められた関係によらない、というのもこのドラマが繰り返し描いてきたことだった。

そして花江が自分の人生をふりかえって「悔いがない」と満足そうに語る。いわゆる専業主婦で、家族のケアをし続けた人で、寅子みたいに社会的になにかを成し遂げた人でも「闘う側」でもなかった花江を、このドラマは丁寧に見つめていた。自分が軽んじられることの怒りや哀しみを丁寧に言葉にしてくれた。と同時に、家族をケアする人の人生をやさしく肯定した。寅子と花江の生き方は正反対に見えるけど、自分で選んだ人生を生き抜いたという意味で同志でもあったのだ。どちらかではなく、どちらも描く、という脚本のバランスがとらつばの物語の根底にあったのがよかった。


そして物語は何度でもここに立ち返る。法とは何か。

第一週のラストとまったく同じポジションで寅子は桂場と向き合った。退任して和服姿の桂場は、穏やかになるどころかいつも通り不機嫌そうだ。だけど寅子が「法とは船のようなものなのかなと思ってます」と話すと「続けて」と耳を傾ける。

人が人らしくあるための尊厳や権利を運ぶための船。社会という激流に飲み込まれないための船。(中略)

生い立ちや信念や格好、男か女かそれ以外か、すべての人が快適でいられる船にするよう法を司るものとして不断の努力を続けていきます。

桂場はそれにはなにも答えず、「今でもご婦人が法律を学ぶことも職にすることも反対だ」と言う。あの日と同じように。まだセーラー服姿の寅子が、母を説得できないのだと相談してきた、あの日と同じように。

社会は動かないと突き放すように言う桂場に、「今なにか変わらなくてもその声がいつか何かを変えるかもしれない」と反論する寅子。そんなことは百も承知であろう桂場が笑う。「君はあれだけ石を穿つことのない雨だれは嫌だと、腹を立ててきただろ」と。穂高との因縁を持ち出されても寅子がひるむことはない。

未来の人たちのために自ら雨だれを選ぶことは苦ではありません。むしろ至極光栄です。

「雨だれ」となることを強要されることと、自ら「雨だれ」を選ぶことは違う。どんな地獄を歩くかは自分で決める。それもまた、このドラマがずっと繰り返し伝えてきたことだった。

それでも桂場は「君のように血が流れていようともその地獄を喜ぶもの好きはほんの僅かだ」と反論する。これは第一週で桂場が「今君が先陣を切って血を流したとしてもなんの報いもないだろう」と言ったのに対して寅子が「心躍るあの場所に行けるなら、わたしいくらでも血を流します」と反論したのを受けての言葉だろう。あの日、自分の言葉を取り合おうとしない桂場の前で寅子は無力だった。だけど突然背後から現れたはるがブチ切れた。

そうやって女の可能性の芽を摘んできたのはどこの誰? 男たちでしょ?

今はもうはるはいない。だけど桂場の言葉に反論するのは寅子じゃなかった。

いや。ほんのわずかだろうが、たしかにここにいる。

そう力強く言ったよねの後ろには女子部のみんなが、そして轟が、覚悟の決まった瞳で桂場を見据えていた。もう私しかいないんだって絶望した日も、泣いて六法全書を手放した日もあった。だけどもう寅子はひとりじゃなかった。そのことに泣けてしまう。

ここで「失敬。……撤回する」と言えるのが桂場だなと思う。だけど続けて言った「君のような御婦人が特別だった時代はもう終わったんだな」という言葉にはまたしても反論を食らう。

はて。いつだってわたしのような女は五万といますよ。ただ時代がそれを許さず、特別にしただけです。

かつて祝勝会で寅子は言った。

志半ばで諦めた友。そもそも学ぶことができなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人がいることを私は知っているんですから。

そして美雪にも。

あなたもお母さんもたしかに特別。でもそれはすべての子供達に言えること。

この物語は特別な、恵まれた、成功した女性の物語ではない。あなたの物語かもしれないし、あなたの大事な人の物語かもしれない。時代に許されず透明され続けた人たちの物語かもしれない。最後にそう、バトンを渡された気がしたのは私だけじゃないはず。


少し話はまたずれるのだけど、この最終回で寅子が法の解釈を舟に例えたことで、わたしは漫画『違国日記』の最後の詩を思い出していた。

『違国日記』は事故で両親を失った高校生・朝と、彼女を引き取った小説家の叔母・槙生が共生する数年間を描いた物語だ。最終回の朝の高校卒業の日、Web連載コラムに槙生がひとつの詩をアップした。

「夜明けよ」から始まるその詩を、わたしは読むたびに泣いている。

舟という共通のキーワードから連想したけれど、この詩の本質はむしろ「雨だれ」だ。みずから「雨だれ」となること、そして今は見えない(けれどいつか見えるかもしれない)「夜明け」についての物語。

一部を抜き出してもこの詩の良さを伝えきれないと思うのでやめておくけれど、もし未読の人がいたらぜひ読んでみてほしいです。轟と時雄の願いとも響き合う詩だと思う。


最終回は1999年、男女共同参画社会基本法が施行された年まで飛ぶ。すでに亡くなってる寅子は少し若返って元気いっぱい。見えない姿なのに優未にうざ絡みし、航一の話をぜんぜん聞いてないあたりが生前の寅子っぽくてかわいい😂 そしてそれなりに年齢を重ねた優未は、おそらく結婚しておらず子どもも持たず、好きなことをあれこれ生業にして生きているよう。まあ経済的に裕福であるという特権あってこそではあるけれど、これまで社会が女性に課してきたものを一切背負わず生きている優未の人生は希望でもある。そんな優未がおそらくは苦境にある美雪に、母の存在そのものである法律の知識を授けるというサプライズも最終回らしくてよかった。

そしてサプライズといえば、回想シーンでの桂場との対話の後に出てきたはるさん!これもまた第一週と同じポジションからの登場でしたね。「本気で地獄を見る覚悟はあるの?」と第一週で覚悟を問うたはるが、最終週で「どう?地獄の道は」とふたたび問う。「最高!です!」と答えて笑った寅子がふっと泣きそうになった「娘」の感情を見て、わたしが泣いた。

また、女子部の面々にとっては竹もとに始まり、そこを飛び出て、傷ついて、別れもあって、それでもまた竹もとに再集結できた。脚本の吉田さんの頭にあったという『マッドマックス 怒りのデスロード』で言うならば、竹もとこそが彼女たちのシタデルだったのかもしれない。おばあちゃんもいるしね!

最後のOPも、先日公開されたアニメーションフルサイズが流されるかと思ってたけど、実写の回想詰め合わせでしたね。これはこれでよかった。とらつばの主人公は寅子だけど寅子だけじゃないから。みんなの物語だから。すべての登場人物たちの人生を思って胸が一杯になった。

終わってしまったのは寂しいけれど、大切なものをたくさん受け取った朝ドラだった。これからも考え続けるし、折に触れて思い出すだろう。だからまだ終わった気がしない。これからも長く付き合っていきたい。そう思える朝ドラだった。

制作陣のすべての皆さん、ほんとうにありがとうございました〜!!!!!全体の感想はまた改めて書きます!

ここまでの長すぎる感想を読んでくれたかたもありがとうございます!あなたの感想も聞きたいです!!

それでは『さよーなら、またいつか!』


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