「日野くん、HSPって聞いたことある?」
大学の学生相談室に通い始めて5週間が経過したとき、Instagramのストーリーにカウンセリングの経過報告を投稿しました。すると高校の時のクラスメイトからこんなメッセージが送られてきました。
その子は自分も同じような悩みを抱えている話を共有してくれて、HSPに関する本をお勧めしてくれました。
言葉自体は知っていましたが、詳しく調べたりしたことがなかった僕は、おすすめしてくれた本をKindleで買って読んでみました。するとそこには僕が5週間かけて気づき始めていた自分自身の特性や資質とも言えるような部分がずらり。
(うわ、これ僕だけじゃなかったんだ……!そうかそうか。本当に僕はHSPなんだ。なんか安心したな)と教えてくれた友達に感謝しながら、共感して読み進めました。
しかし、何事も考えすぎるタイプの僕は、「みんなちがってみんないい」はずのこの世界で、なぜ「名前」を求めてしまうのか自問しました。HSPに限らず、セクシュアリティや性格、国籍や人種など、「名前」をつけて人をラベリングして、何かを決めつけることは、多様性に逆行しているのでは……?と思ったのです。
「千と千尋の神隠し」
僕はこの映画が結構好きで、小さい頃からよく見ていました。夏になるとほぼ必ず金ローで放送してるので、見たことがある人も多いかと思います。
映画の中で、主人公である「千尋」が名前を奪われ「千」になるシーンがあります。千の名前で時間が経過していくと千尋だった頃の記憶が薄れ、自分の名前を忘れそうになります。しかし、最後に彼女は自分の名前、すなわち、自分の人生を取り戻し、元の生活に戻るのです。
物語の中で「名前」はアイデンティティの象徴として描かれています。「名前」が「本当の自分」を意味し、それを思い出したことで神隠しから元の世界に帰れるのです。
「千尋行くよ。」「千尋早くしなさい!」という両親のセリフに千尋が反応して物語は幕を閉じます。アイデンティティの象徴として描かれていた「名前」を呼ぶ人がいる、つまり「自分が帰る場所がある」という感覚もまた、名前がもつ力の一つだと思います。
名前があることの心地よさ
もう流行のピークは去った感はありますが、骨格診断、パーソナルカラー診断、MBTI診断など、様々な種類のタイプのどれに自分が当てはまるのかを調べる「診断サービス」を近年よく見かけますよね。診断に囚われて窮屈さを感じる人が出てくるほど、急速に社会に浸透していったように思います。
多様性の大事さに気づき始めたこのタイミング。人々には多種多様な無限のグラデーションがあると頭では分かっていても、やはり「名前がある」つまり「帰属意識を感じる集団がある」という安心感は魅力的です。
診断サービスによって生み出された限定的な多様性は、程よく受け入れやすい絶妙なバランスをしているな、と僕は感じます。
さらに、名前があることで「ありのままの自分を受け入れること」の難易度が少し下がります。たとえ悩んでいた自分の欠点も、名前がつくだけで
「なーんだ。自分ってこれだったんだ。なるほどね」
と思えることがあるのです。「HSP」や「ノンバイナリー」という言葉を知った時の僕のように。
「みんなちがってみんないい」
大正時代に金子みすゞさんが「私と小鳥と鈴と」の中に綴ったこの深い優しさを持った言葉が、僕は好きです。そしてついに、この言葉は世論になってきていると思います。
「多様性を認める?認めない?」という話はもはや前時代的な古臭い議論です。「私たちの社会はすでに多様性を有している」という事実が可視化されてきています。今まで存在を無視されてきた社会的マイノリティが平等の権利を手にいれ、誰しもが幸せに生きて行ける社会に一歩ずつ近づいていると思います。
HSPも、タイプ診断も、セクシュアリティも、「人による」「人それぞれ」「わざわざ区別する必要なんてない」と言ってしまえば、そうかもしれません。でも、そんな「みんなちがってみんないい」社会だからこそ、名前をつけて団結や連帯を生み、理解を促進し、存在を示すことには多少なりとも意味があると僕は思います。
「違う」と「同じ」
今回は「多様性を有しているこの社会で、なぜ名前をつけて人をジャンル分けするんだろう……」という自分の中の矛盾について考えてみました。
回答としては、
人はそれぞれ違うことは事実だけど、同じ部分もあって、そんな「同じ」を共有した仲間がいることには、少なからず意味を感じるから。
といったところではないでしょうか。
いつか名前の必要性を感じなくなる日が来るかもしれませんが、僕はもう少しだけ「名前」の持つ力に背中を押してもらおうかな、と思っています。