「新しく描き直してもいいですか?」
小学六年生の時、卒業までをカウントダウンする日めくりカレンダーをクラスで作りました。僕は「卒業まであと5日」のページを選んで、大きな数字の5とその周りに絵を描きました。
当時、僕の同級生にバスケットボール部の女の子4人グループがいました。周りに馴染めていなかった僕は5年生の頃からそのグループのリーダーっぽい子にちょくちょくものを隠されたり、軽い嫌がらせを受けていました。
カレンダーを描き終えた休み時間。僕の絵に、そのグループの一人が青いマッキーで線を書きました。色鉛筆で塗った青いリボンの上に、1センチくらいの短い青の線が引かれたのです。
不自然に浮いて見えるマッキーの線を見て心底うんざりした僕は、担任の先生に「新しく描き直してもいいですか?」と聞きにいきました。先生は同情の態度を示しつつ「でも大丈夫。せっかく頑張って描いたんだから、もったいないよ」と言ってくれました。
しかし、当時の僕はどうしても納得できませんでした。指の爪くらいのマッキーの線で、僕が描いたカレンダー全てが台無しになった気持でした。
白か黒か
僕は昔から白黒思考に陥り、少しの欠点が気になって、全部が嫌になることがあります。上記の話がいい例です。
その思考は日常の様々な場面で現れます。
遅刻するくらいなら行きたくない。平均点取るなんて無意味。隙間時間で中途半端な作業ができない。少しでも苦手だと思った人は全力で避けてしまう。一個予定があるとその日一日何もできない。などなど
数年前、テレビのいわゆる「オネエ枠」のタレントをみた祖父に「お前はこんな風になるなよ。恥ずかしいからな!」と笑いながら言われ、それから数年後に(冷静に考えるとあの発言最低だったな……昭和のクソジジイ……)と理解して以来、ほぼ会っていません。
善か、悪か。正しいか、間違っているか。優れているか、劣っているか。尊敬するか、しないか。関わるか、避けるか。
二極化した思考は疲れることばかりです。自分にも他人にも常に批判的な眼差しを向けて、どんどん人生が窮屈になっていきます。
白と黒の間のグレー
100点目指さなくてもいいよ。80点、いや、60点でもいい。
とりあえず完成させて提出しよう。
大学生になってから、課題をやるときによく言われる言葉です。
「頑張れ」「一生懸命に」「努力しろ」
とは真逆の考え方ですよね。
こんなに適当でもいいのか……?と不安になりながらも提出すると、意外といい点数が返ってきて(これで良いんだ)と驚くことがあります。
SNSでの活動でも似た経験があります。
(う〜ん。あんまり気に入ってないけど、投稿しちゃえ。ぽん!)
と投稿したイラストに「めちゃめちゃ好きです!」とコメントをいただくこともありがたいことによくあります。
そうしたことを繰り返し経験していくうちに(もしかして自分が抱いている「理想」とか「完璧」って、自分の中だけの話なのかな……?)と気づき始めます。
白か黒か決めつけずに、無限のグラデーションがある「曖昧なグレー」こそ現実なのかも、と思うようになったのです。
ビリヤニの箱の裏
みんなはビリヤニって知っていますか?
ビリヤニとは、インドやその周辺国で食べられているスパイスとお肉の炊き込みご飯です。またパエリア、松茸ご飯と並び世界三大炊き込みご飯の1つと称されています。
一言で言うなら、カレー炊き込みご飯ですね。
最近実家に帰った時に作ったんです。バスマティライスっていう細長い良い香りのお米を使うレシピで、Netflixの「ブラックミラー」というドラマにチラッと出てきて以来ずっと食べたくて楽しみにしていたんです。
専用スパイスの箱の裏側に英語でレシピが書かれていて、僕は工程の最後の文章に衝撃を受けました。
Let simmer the rice on minimum flame until rice is fully done.
訳すと、
煮てください、ライスを、弱火で、〜まで、ライスが完全に終わる
つまり、このビリヤニの箱は「ライスが出来上がるまで、ライスを煮てね。」と言っているんです。何分煮るとか、どうなったら出来上がりとか、そういうことは一切書いてないんです。「あなたが出来上がりだと思うまで煮てください」ってことです。これを読んだ時、思わず笑っちゃいました。
いやいや、こちとら人生初ビリヤニだから出来上がりわからんのよ!
と思いました。でもなんか、良くないですか。この曖昧さ。
完璧主義にとらわれなくても、曖昧でも、それで十分。適当に煮れば、美味しいビリヤニは出来上がるのです。
曖昧な日常
現在の生活でうまく機能している「曖昧」の一例として、僕と父との関係が挙げられます。
過去の父はイライラして怒鳴りつけたり、ドアを蹴って穴を開けたこともありました。今はアンガーマネジメント講習を受け、怒りのコントロールを学んだようです。キレることもなくなりました。
小さい頃は大声でブチギレている父をひたすら怖いと思っていましたが、祖父と同じように、時間が経つと(なんて知性や理性からかけ離れた、愚かな言動なのだろう……可哀想な人……)と思うようになりました。父を許して今までと同じように関わるか、それとも父を許さず関わることをやめてしまうか考えました。
そして僕は「父を許さないまま、名前呼び捨てで関わる」という選択をしました。父との関係はまさしく、ビリヤニの箱の曖昧さです。好きでもないし、嫌いでもない。でも、それで十分関わることができます。結果的に父とは一緒に二人で住めるくらいには仲が良い関係になりました。今でも父のことは名前呼び捨てで呼んでいます。
そう思うと、祖父との関わりをもう少し増やすのも悪くはない気がしてきます。たしかに祖父は前時代的な価値観の持ち主です。でも同時にすごくさっぱりした性格で、いつも笑顔で、なぜかどんな動物にも好かれる魅力的な一面もあります。
ビリヤニの箱の裏の適当さで、祖父に関わってみるのもいいかもしれません。完全な悪人も完全な善人もいない、僕たちはみんな曖昧なグレーなのですから。