彼女のオルタナティブな主体性(奏章4感想)

hiraide
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公開:2025/5/7

中盤まで本編の軸であるマシュの葛藤にいまいち乗れず「つまりどういうことだってばよ?」状態だった。私からしてみればマシュは今も倫理的なので悩む必要はないし、悩まなくていい人が重箱の隅をつつかれて過剰に道徳性を求められるのは悪意の思うツボだし、なんなら一方的な決めつけによるモラハラにまともに応答する必要はない―――という理由で。そこから物語を追うごとにわかってきたこと、逆にわからなくなってしまったことを整理しながら、「奏章4、よかったな〜」と振り返りたい。

「らしさ」とは

リリスの主張する「人間らしさ」とはなんだろうか。はじめの苛烈な罵倒を読む限り、どうやら「ジャッジメンタル(審判的)ではない」ことが理由のようだ。とはいえ、悪意を向けられても、たとえ加害をされても、そこまで他人を嫌えない人間というのは普通にいる。たとえば昔の自分である。だから、リリスの罵倒はけっこうキツい。私は好悪をいちいち決めて感情を露わにするのが「人間らしさ」だとする考えが、それに合致する性格特性の人々による本質論の占有だと、だいぶ性格が悪くなった今でさえ思っている。ヘゲモニーだ。

「ルーラーらしさ」もよくわからない。従来のルーラーは聖杯戦争の秩序を担うエクストラクラスで、聖杯という超越的な意志のもと出来事の是非を裁定するが、それは役職をまっとうできるかどうか、役職にふさわしい高潔さを備えているかどうかの問題だ。聖人や聖職者は生前から神の代弁者だったから、まさにうってつけだろう、なんて塩梅で。はたして思想人格はそこまで問われていただろうか。ルーラーでありながらずっとルーラー問答の蚊帳の外に置かれ、弁護士として誠実に「偏り」を披露していた若モリくんの立場はどうなるのか。しかし、このルーラーが肩入れ云々のテーマ、アストライアの幕間で読んだ気がする……。

ギャラハッド先輩の期待が重い

つまり、本編でも言われていた「ギャラハッドが偏屈」という話に尽きるのだろう。マシュの進路にとって彼のお眼鏡に適うかどうかは重要なのに、ギャラハッドは自分のコピーを彼女に期待していたもんだから「思想が強くなった」マシュのフォローを外してしまった。もっとも、終盤の彼はマシュの師匠のようなツラをしていたので、真剣に彼女を嫌っていたリリスがなんだか可哀想だ。いや、リリスは自分の悪意に味方なんて求めてないだろう。粘着アンチにしてはやたら徳が高いのである。

言外のメッセージを送るギャラハッドと、ひたすらネチネチ悪意を向けてくるリリス。マシュにとって気持ちよくないのは圧倒的後者だが、真に悩まされていたのは前者だったと思う。リリスのモラル・ハラスメントは、他者への嫌悪感を受容するに至る重大なきっかけだった。しかし、そうは言われても、罵倒された自身の「無垢」が、とうに過去のものになったことをマシュは知っている。それでも、どうにかして変化を否認したい。これが事態をややこしくする。リリスの憎む自分こそ、あるべき理想―――自発的ではなく、必然的に絞られた選択肢の裡にあるそれ―――なのである。

ギャラハッドの承認は、もともとは「盾を扱える資格」に関わる課題だったはずだ。ところが、あるときから「理想的なルーラーの適正」なる付加価値も加えられて、なんと彼女にはルーラーになるか否かのキャリアまで提示されてしまった。が、そのためにはマシュの中に生まれていた「偏り」を捨てなければいけないらしい。ルーラーと化して人理に刻まれ、その後はメタトロン・ジャンヌに使役されるか、それとも無事にカルデアのサーヴァントに戻れるのか。いずれにせよ、このままだとマシュは盾を使えなくなり、みんなを守れない。だからルーラーというキャリアもありかもしれない、と記憶に伴う「感情」を抜かれたマシュは考える。

「公平・平等」がよくわからない

ルーラーに必要なもの。ギャラハッドに備わったもの。マシュが取り戻したいもの。すなわち「公平・平等」が、マシュの成長にとって重大なテーマとして立ち顕れる。

でも、白状すると、何をもって「公平・平等」とみなすのか、私にはよくわからない。「公正」とは違うのだろうか。「公正」への問題提起なら、少しはわかる。「どんなに公正さを追求したところで、どの種類の格差をどれほど容認し、いかに合意を取るか、という話でしかない」とか。たとえば能力主義が建前になっている社会では、能力の差が(評価の基準やその妥当性はべつにして)賃金格差を「納得」させる要因になっている。この格差に気持ち悪さを覚えつつも、「不公正だ!」と自信たっぷりに糾弾できるひとは少ないだろう。絶対の真理ではない事柄がお約束になり、納得へと導く社会に、私たちは生きている。そんな感じであれば、わかる。「公平・平等」は結果の話で「公正」は手続きを踏まえたある合意の形だが、前者はいったい何をもってそれとみなしているのか。文脈を踏まえないと理解し難い。

作中では、「公平・平等」とラベリングされた箱にさまざまなものが放り込まれる。他者を責めず、ジャッジメンタルになることが不得意だったマシュ。彼女とは真逆で、他者をジャッジして罰を決定するメタトロン・ジャンヌ。争いには加担せず、抵抗もせず、国の滅びを見送ったギャラハッド。彼らはみんな「公平・平等」でルーラーの適性に優れているらしい。いやいや、それぞれ違うだろうと言いたくもなるが、共通するのはおそらく他者へのスタンスだ。他者の態度や振る舞いに過剰な好悪を抱かないこと。一線を引けること。他人の感情に巻き込まれず、影響されないこと。ひいては、これらが「公平・平等」なる結果をもたらす、という考え方だ。

ギャラハッドについて

もっと噛み砕いてみる。ギャラハッドのスタンスは「過剰に入れこまないけどサポートはする」だと思う。見捨てるのも騎士道に反するからと、彼は事もなげにリリスを助けるが、だからと言って束縛はしない。たぶん自立した個人を応援するタイプで、伴走はすれども、つかず離れず。「ギャラハッド先輩の期待が重い」だの「思想が強くなったマシュのフォローを外す」だの、さんざん書いてきたけれど、彼はべつに感情的にマシュのキャリアを操作したがっているわけではない。確固たる道を選べた彼女の、試練として立ちはだかる先達らしさを見せるのがその証左だ。(でも、マシュがパラディーンになれずにグズグズしていたら「それ見たことか」と肩を竦めて見限りそうなドライさも感じる)盾の不具合は、ギャラハッドの理想の象徴が、彼女の欠格事由を認めた。そんなシステマチックな理由に過ぎないのだろう。あるいは、盾の理想にマシュの器が収まりきらなくなっているか、だ。

ギャラハッドの、リリスのチートを容赦なく引っ剥がす融通の効かなさ。己に厳しく、他人にも厳しい。実際、めちゃくちゃになった円卓の騎士団を、彼は調停しなかった。聖杯戦争のルーラーだったら職務放棄にあたるので、つまり聖杯戦争のルーラー的役割=ギャラハッドの思想信条個性ではない。ますますルーラー適性の内実がわからなくなるけれども、彼の理想がどんな枠組みをしているか、は少し見えてきた。

ギャラハッドの理想はギャラハッドのもので、冷静に考えても他人がトレースできるような代物ではない。ところがどっこいかつてのマシュは「無垢」だから、こんなに厳格な理想を持つギャラハッドと融合できたのだ! いや、私はそれに納得がいかない。ダダをこねはじめる。これから物語で説明された理由を否定してみる。

だから融合できたのでは

マシュにだって個性がある。だって、無垢マシュがすべてを受け入れて吸収する揚げ茄子のような存在だったら、リリスの嫌悪に説明がつかないではないか。いくらマシュがどんな英雄も受け入れる度量の広さを兼ね備えているとはいえ、相性(英雄たちが、マシュをどう感じるか)がある以上、彼女はただの媒体にはなれない。厳格なギャラハッドも同様だ。召喚だけならマシュの度量の広さだけで事足りるのかもしれないが、融合になると話はべつである。実際、盾は錆びついている。

だから、霊基を譲渡したギャラハッドが、実験体として生まれたマシュに寄り添ったのだと思っている。そうすれば解決だ。彼のほうが、マシュに合わせたのだ。優しいとはいえ、彼と同じではないマシュは、それでも彼の理想を否定しかねない考えは持っていなかった。ゆえに、融合は容認された。ただし、彼女が成長して新たな思想信条を得るまで。これなら、そこそこ納得できる。

マシュの理想について

はじめからマシュは優しかった。ジャッジメンタルではない、と書いたが、ようはエンパシーに優れていたのだと思う。異なる他者への共感。ベリルのような他者の合理性すら尊重できる。これを「人間じゃない」と言ったら世の中の医療福祉および国際秩序が崩壊するのでリリスは覚えておいたほうがいい。事実、エンパシーの弱まった国際社会は無法の巣窟になっている。さておき、ここで問題が生じる。

優しいマシュはどんなひとの事情も汲み取れるので「他者を嫌う」ことに抵抗がある。優れたエンパシーゆえに命の掛け値のなさをわかっていて、親密を理由にした贔屓に罪悪感を覚えてしまう。このマシュが、ギャラハッドに似ているはずもない。彼女を悩ませている規範は、もはやギャラハッドの理想ではない。彼女はテペウの言葉をしきりに思い出す。「差はできてしまうものなのです」―――ジャンケレヴィッチの人称的な死を思い出す。それでも、近しい他者と紡いできた経験に基づくエンパシーと、見知らぬ他者を尊重のするためのエンパシー。彼女は双方に差をつけたくない。

ああ、差をつけてしまう私は不平等で、とてもじゃないけどギャラハッドさんに顔向けできない―――彼女はこう思ったかもしれないが、たぶんギャラハッドが「平等」なのは彼女が考えるような理由ではない。彼は鬼コーチのメンタリティで厳しく周囲を観察している(ジャッジしている)けど、マシュはそうではない。 自分にも他人にも厳しいことは限りなく「公正・平等」だが、彼は他者へのケアによって相手の人生に関わり、自らも変えられるような、可変性の世界にはいない。だから円卓の滅びを見送ったのだとされる。マシュは双方向の可変性の中にいながら、個人的な好悪によって相手を判断するエゴを手放したいと思っている。これがマシュの願っていた「公平・平等」である。

はじめから「平等」の内容が違う。そうして彼女は図書館で記憶と感情を辿る。今の価値観を言語化して「公平・平等」以外の倫理を見出さなければ、ハベトロットの命を救えない。オンリーワンサーヴァント・マシュのクラスを決めるのは、ほかでもない彼女の倫理観と価値意識なのである。

パラディーンとはなにか

前提を整理する。マシュは他者の固有の在り方を尊びながら、自らの経験に紐づく価値判断に罪悪感を覚えている。まなざすためには「偏り」があってはいけないという、天秤たるプロ意識。というより、優しすぎて優柔不断だった。これが現在揺らいでいる。さまざまなな人々や価値観に触れて思うところができたし、悲しい別れも諦めざるを得ない別れもあった。

リリスの悪意も揺らぎを後押しする。「アテシのことがムカつくでしょう? ほら、おまえはもう無垢ではない」と。リリスはマシュの無意識の否認に気づかせるためにオラオラと揺さぶりをかける。しかし、ギャラハッドに会わせてあげたこともそうだが、リリスは結果的に見てマシュのサポートしかしてない。やっていることは、彼女の試練として立ちはだかったギャラハッドとそう変わらない。なんだかんだ言いながら、暗殺ではない正々堂々全力の殺し合いを望んでいる。それでいいのだろうか。

ルーラーは裁定者なので審判をしなければいけない。ルーラーが審判の際に依拠するものは、聖杯とか、人理とか、神とか、超越的な意志である。かつては審判的態度を備えていなかったマシュも、現在は好悪や善悪を判断できる。では、彼女はルーラーに向いているのだろうか? いや、ルーラーの価値判断と比べてマシュのそれは素朴なのだ。マシュには聖人のように超越的な意志を知らないし、シャーロック・ホームズのように神のごとき知能があるわけでもない。「普通の女の子」―――この言葉はある種の鋳型に伴う願望をヒシヒシと感じて気持ち悪いのだが―――として感じ、悩み、考え、葛藤しながら生み出す価値判断なのである。われわれと同じだ。マシュはただの人間の価値判断を、彼女固有の倫理としてクラスに昇華した。

盾に支配されるのではなく、盾を支配するパラディーン。ときに盾ではなく、剣を握るパラディーン。最高だ。こうしてオルタナティブな主体性を手に入れたマシュだが、彼女の「罪」について腑に落ちたわけではない。マシュは倫理的に悩める人格なので、ここまで責められるいわれはないのでは? しかも、法廷のやりとりも甘いというか、メタトロンもギャラハッドもマシュの成長のために少し厳しい素振りをみせているだけという感じがする。繰り返すが、なんだかリリスの立場がない。

「クールな戦闘美少女」の殻をやぶれ

結局、リリスが憎んでいたのは実験体だった頃のマシュだった。なんなら今も彼女はそのときのメンタリティを手放せずに生きている。言われてみると、たしかに「無垢ヒロイン」だったマシュは、私にとっても魅力的な表象ではない。初期FGOのあまりのコテコテさについ流してしまうが、初っ端の「人の心を学んでいる途中のクール美少女」(マシュ)と「余裕のないツンツン美少女」(オルガマリー所長)のキツさに周囲の何人かは早くも挫折していた。うん、サブカル美少女慣れしてるorその概念をまったく知らず新鮮に楽しめるタイプじゃないと厳しいかもね。

初期マシュのような綾波レイ型の「悪意がなくピュアでクールな(人造)戦闘美少女」は、Born Sexy YesterdayとかManic Pixie Dream Girlとか呼ばれるフィクションの人物造形に近い。BSYもMPDGも「恋愛対象として都合よくデザインされた無知であどけない女性表象」のことである。私はこれらにわりと萌えるが、さておき。これの恋愛ではなく戦闘目的でデザインされた美少女たちが、本邦サブカルコンテンツには山ほどいる。マシュもその一人である。

クールな戦闘美少女たちは、戦いに身を投じているにもかかわらず、ほとんど思想由来の動機がない。もしくは「あの人がそれを望むから」という欲望を感じさせない動機で命を捨てている。とても献身的で、いじらしい。我欲や思想を抱かず、肢体のラインを過剰に強調したボディスーツや鎧もどきを身にまとい、献身的に戦うが―――傷ついた姿もまたエロティックに演出される―――そんな理不尽に悲しみ怒るような感情の機微は持ちあわせない。そんな戦場のヴィーナスたちに、主人公や読者は「彼女を守らなければ」と心中掻き立てられる。もっと自分を大事にしてくれ! と。なお、彼女たちは圧倒的な戦闘能力を持っているし、ときには地球だって破壊する。

彼女たちは、戦う理由を外部の指示に委ねているから、圧倒的破壊の実行者でありながら責任を負わない。無思想であるがゆえに処女性を保つ「聖女」である。これはもう少し背景がはっきりしてみないとわからないけれども、エゴがはっきりしていて、それ故に人間のソトに置かれた「悪女」のリリスとは対極的である。ここで、「マシュの罪、ここかあ」とようやく私は理解する。

マシュはずっと、どこか他人事だったのかもしれない。でも、ここに来てやっと、献身的でいじらしく、それ故に責任を負わない「ヒロイン」の地位を、彼女はとうとう放棄したのかもしれない。偏り、何が邪悪かを判断できる、万民にとっての正解ではないけれども「公正」を目指すことをあきらめない。マシュはオルタナティブな主体性をとうとう手に入れたのかもしれない。

かつて無責任だったヨハンナの転身

トラオムのヨハンナを思い出す。彼女の立場は一大勢力のリーダーだったはずだが、彼女は自分の怒りをパートナーであるコンスタンティノス11世に代弁させる一方、「祈り、愛される」という「無垢」な立場を最後まで崩さなかった。状況のときどきで当たり障りのないポジションについていたものの、彼女の公共に対する信念は見えず、かといって自己存在についての葛藤さえ、何が言いたいのかよくわからない。フィクション由来の存在が大多数のFGOで、フィクションとして生み出されたこと自体を憎悪するよくわからなさ。

女教皇の寓話は、決して女性の立身出世をエンパワーする物語ではない。寓話のヨハンナは卓越した能力に見合った人生を切り開き、ついには教会の座に昇りつめたものの、女性であること、出産をしたこと、それらを理由に周囲を騙していたことで、人々から不名誉の象徴とされる。その後、教皇にはセックスチェックが必須になったのだ―――という教訓つきで。後年、カトリック教会批判の文脈で女教皇の実在を主張する人々があらわれ、歴史家はそれを否定したが、この歴史家のファクトチェックにもヨハンナは憎悪を向ける。(ウィンストン・ブラック『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』でも読んだのだろうか?)自らの実存を願うと同時に、自分勝手に己を生み出し、否定した人類を憎む。そのわりに、おそらく「女教皇」が求められた女性蔑視の背景には無頓着である。加えて、自らの早産のエピソードに「グロすぎません?」と他人事のようなコメント。

自分の悩みに終始はしても、ほかでもないヨハンナのために命をかける人々への負い目に欠けていたのがトラオムの彼女である。復権領域の長としての責任感や自覚に欠けている。これはジークフリートに会えたらそれで解決!と言わんばかりだったクリームヒルトも同様だ。私は怒っていた。責任感や自律性や知性をスポイルされ、愛嬌とロマンチックラブという甘ったるいクリームを塗りたくられたトラオムの女たちに。

ところがどっこい、今回のヨハンナは最高だった。

最初の「赦し」と「承認」

テーマや細部の生真面目さを中和するようにコメディタッチな会話も増し増しだった奏章4。厳格そうに見えた今回のヨハンナも、トラオムと同様、蓋を開けてみれば愛嬌もユーモアもたっぷりだった。しかし、このヨハンナ、知性も責任感もある。最高である。

地獄の住人に慈悲を与えるにせよ「ここまでなら大丈夫だろう」と推論を立てる。結果的にアウトの判定を食らったものの、天使の排除はカルデアに任せる。メタトロンが階層を殲滅するなら、責任を持って残って戦う。決してお礼を言われなくても、自律的にその場に踏みとどまる。階層の殲滅はたしかにヨハンナが望んで天使を排除したせいかもしれないが、首の挿げ替えは予想しても階層全土の襲撃まで彼女の責任にするのは酷だろう。

メタトロン・ジャンヌとの会話。ヨハンナは笑って「嬉しかった、ありがとう。それで、いいんだよ。私は全てを赦します」と返す。ここには二重の赦しがある。今まさに罰のために彼女を消そうとするメタトロンはヨハンナの実在を赦し、ヨハンナはそれを愛しいと思う。今まさにメタトロンに殺されようとしているヨハンナはメタトロンの罰を赦し、メタトロンはその後も彼女の言葉を反芻する。お互いがお互いへの罪を抱える状況で、罪を置いてなお、お互いへの赦しがある。ふたりのあいだにある赦しは実存への愛だろうが、実存への憎しみを赦しあったのがマシュとリリスかもしれない。

「嫌いでいいんだよ」

リリスのすべてを込めた攻撃は、マシュにとって「過去の私」に向けられたものだったのだ。この時点でリリスはマシュの決別を助けるファクターになってしまっているし、もはや一途で健気なまである。リリスに対してははじめこそ素直に「ウワーッッッモラハラ粘着クソ女だ!!!!」と思ったが、マシュがモラハラに振り回されるのではなく、悩みを自らのものにした時点で小鳥のさえずりになってしまった。

リリスは自らの悪意に賛同を求めない。周囲がやんわり釘を刺すなかでも清々しく笑っている。「大嫌いと書いて百合と読む」みたいなラブロマ構文に変換するには毒の強い関係。それでも「フォア・キリエライト」「聖騎士のクラスを獲得した、お前へ、貴女へ、君へ!」「この私の、このどうしょうもない憎悪は、私だけのものであって欲しい」はさすがにアイラブユーと紙一重である。ラブロマンスのガワを被せた憎悪なのか、愛情になりそこなった執着なのかもはやよくわからない。でもマシュは「わたしのための弾丸。わたしのための宝具」は受け止めても、リリスほどのビッグ感情はなく普通に嫌いなんだろうから、パラディーンの剣に受け止められて弾かれたリリスの片想いはあえなく終わりを迎えたのである。

こうして、マシュの過去の決別を誰よりも手助けしたリリスは他者への嫌悪を肯定する。たとえマシュがリリスを嫌いでも、マシュの聖騎士たる武具は錆びなかった。もちろん、リリスのモラハラがなければマシュも彼女を嫌う理由はなかったのかもしれない。それでも、正当性なき「嫌い」を許されるということは、「相手が悪い」といちいちジャッジする必要はないという、ひとつの赦しだ。嫌悪を抱く自分の価値観や生き様を、いったんそれでもいいと引き受けること。それがマシュにとってのスタート地点だった。

倫理の話

「何を邪悪とするかを決めていい」本当にそうだ。「罪はあっても罰は必ずしも必要ない」本当にそうだ。「偏りがあっていいんだよ」本当にそうだ。「思想が強い」なんてスラングでノンポリを気取って、他人の「偏り」をあげつらいながら自らの「偏り」を不問にする。あるいは「どうせみんな偏ってるんだよ」なんて内容があるようでないことを嘯いて思考停止をする。いずれにしても自らの発言・拡散に責任を負わない。世界的にバックラッシュは進行する。そんなここしばらくの情勢を念頭に置いたようなシナリオで、眼鏡イベから評価されてきた作者のモラルについての問答が結実した章だと思った。クレオパトラの美意識についても、少し前なら考えられなかったほど慎重に線引きをしている。真面目だ。

相変わらず無駄に乳首の存在を感じるブレストアーマーの塗りはどうかなあと思うものの(どんだけ頑強なんだよ乳首)アルトリアを思わせる騎士のデザイン・宝具演出になったマシュは悩める主人公としてかっこよく大成した。彼女が繰り返し言及する「手を握ってくれたから」の大きさも、私はやっと理解出来た気がする。死の間際にケアされたことへの感謝。そして主人公も、終局特異点で命を守られて、こうして互いの想いはピッタリ釣り合うようになった。うん、ずっと一緒にいような……。

個人的には言峰神父の「カドックは自ら死を選んだのではない。マリスビリーによる殺人だ」があまりにもまっとうで驚いた。大令呪によって寿命を削られ、死にどきを考えなければいけなかっただけで、これは美しい自己犠牲ではない。また、カドックとアナスタシアの共犯関係も再度取り上げられて、アナスタシアがはっきりとあれは「嫉妬」であったと証言したのが熱かった。罪を認めるカタルシス。そして、カドックから主人公へ、かつてあった「嫉妬」は、今回のリリスとマシュにも重ねられていたのかもしれない。

それにしても、エピローグに向けてクリアしなければいけない課題がたくさんあったろうによくぞここまで……と勝手に考えて、なんだかげっそりしてしまった。感想もこんなに長くなるはずではなかった。なぜ?

ひとまず終わり。