2023年のアンビエント、そして2024年

渡邉裕之
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明けましておめでとうございます! 

 さて、2023年のことを書こうと思います。

 昨年、自分がしてきたことの一つは、アンビエント音楽の世界に足を踏み入れたことです。

 自分が住んでいる家から歩いて30分くらいの街に中延というところがあるのですが、そこにある「春の雨」という2022年の暮れにできたレコード店&カフェにたまたま出会ったことが、そのきっかけになります。

 この店は、アンビエントを扱っている店でした。アンビエントは、私が解釈するに、音によって心身に設定されていくスペースを楽しんでいく音楽です。ロックやポピュラー音楽が提供するリズムやメロディー、歌詞を使って時間の流れに沿って表現する音楽であることとは違って、音の繰り返しや音響の質感を使い設定していく独特な音響空間が表現される音楽です。

 春の雨という店で私は、中澤さんという30代の店主に出会い、月に1回くらいのペースで彼に店のレコードを聴かせてもらい、2枚くらいのレコードを購入していくことを繰り返してきました。

 ここで出会ったレコードを数枚紹介します。

 Duval timotyの「meeting with a judas tree」。

 アンビエントは繰り返しの音響という単調なパターンが多い音楽世界ですが、デュバル・テモシーは生き生きとしたメロディーやリズムが明るく展開する音楽を創り出す人です。

 私たちは多くの映画を見ることによって、様々な地域の、そこで生きる人々の独特な悲しみを自分の日本という地域にある悲しみを共振させながら体験してきました。同じように様々な地域の音楽を通してある地域の人々の生きる歓びを体験してきました。とりわけアフリカをルーツとする音楽は、私たちの社会にも浸透しこの日本という地域の生活感覚を拡張させてきました。このデュバル・ティモシーの音楽もその新たな一つとしてあります。しかしそれはソウルミュージックでもワールドミュージックでもなく、新しい音楽としてあります。なぜソウルミュージックでもワールドミュージックでもなく、新しい音楽なのかといえば、そのポイントは創作者の「認識力」と関わっているのではないかと思っています。

 このアンビエントを生み出した音楽家としてブライアン・イーノがいます。昨年、三軒茶屋である亡くなった写真家の展覧会がありました。この人は「アンアン」や「ブルータス」などに関わった写真家で、70〜80年代に撮影した写真が展示されていました。そこで英国に写真家が行った時のビデオも流れていたのですが、それはロンドン郊外で行われたコンサートの様子を撮影した映像でした。印象的だったのはライブが終わった後のロキシーミュージックの姿でした。あまり出来のいいライブではなかったのでしょう、意気消沈したブラインアン・フェリーとイーノが帰宅するために車に乗るところの映像でした。フェリーはまさに失敗したステージの後の芸能人という風情なのですが、イーノは違いました。シェークスピアの物語の一つの登場人物ように出処進退極まった王国の王子のような姿で後部座席に乗り込むのでした。当時、イーノはアンビエンミュージックをまだ発見していなかったはずですが、その前提は手に入れていたのかもしれません。その感じがこの姿に反映されていたような。ブラインアン・イーノは音楽というフレームを既に問題視している沈鬱な王子でありました。

 たまたま撮影された映像を見て、私が思ったことは、嫌な目にあった時の対応が大事だということでした。落ち込んだ時、社会の役割として、例えば学生、会社員、あるいは芸能人として暗くなるのではなく、自分だけの倫理を持って、まるで自分の王国の主人のように威厳を持って落ち込むこと、鬱になること。それが大切なんだと思ったのでした。するとただ気分が暗くなるのではなく、堂々とその事態から退くという選択が目の前に現れるのだと思います。

 先ほど、認識力という言葉を使いましたが、アンビエントという音楽にとって認識はポイントだと思います。芸能音楽という中で悩んだり歓んだりするのではなく、自分を退かせ自分がしている音楽を見ていく、それが一つのフレームとして見えるくらい遠方に退いた時、音楽がただ表現ではなく、フレームとして意識できるのです。その時アンビエントミュージックは生まれたのだと私は考えます。その退き方には人間としての力が必要で、私は認識力と呼んでいます。

 デュバル・ティモシーは、アフリカをルーツとした音楽、ヨーロッパのクラシック音楽を新たに認識している音楽家です。アンビエントはヨーロッパの沈静した質感の多い世界ですが、彼の音楽には躍動する明るいところが中心になっていて、とても心惹かれました。これはイギリスの黒人音楽ですから、彼の国の階級制に深く関わっています。デュバル・ティモシーの作品は移民文化を直接表現する黒人音楽ではない、中流以上の階級に入り込んだアフリカルーツの音楽だと思いました。このこともこれから考えていきたいことです。

 認識力。それを支える要素の一つに教養があります。これは音楽の世界の話ですから、音楽的教養が大切になりますが、もっと原理的なことをいえば、教養を養う者にとって、それぞれのジャンルの先人への想いは、大切な要素だと思います。それに関わるレコードを春の雨で手に入れました。

 FLOATING POINTS「PROMISES」。高齢なサックス奏者の即興音楽への尊敬の念がモチーフとなっているフローティングポインツという若い音楽家が製作したレコードでした。

 高齢なサックス奏者は、ファラオ・サンダース。1940年生まれ、ジョン・コルトレーンのグループにもいたジャズ奏者です。このレコードではファラオ・サンダースとピアノのフローティングポインツがセッションし、そのサックスの即興部分をアンビエント的に編集構成しています。アンビエントですから即興の時間的展開よりは、繰り返しの音響操作による新たなスペースの拡張が行われます。また即興部分がロンドン交響楽団の音響によって拡張される場面もあります。

 ジャズというフレームをどう退いて見ているのかというのがポイントのレコードでした。それを行うことができた認識力は、ジャズに関する教養の獲得が必然だったでしょう。また、基本としてそこで活躍してきたミュージシャンへの尊敬の念が必至です。そのことが非常に上手に表されているレコードでした。

 このフローティングポインツの本名はサム・シェパードといって、宇多田ヒカルのアルバム「BADモード」の中でプロデユーサーの一人として名を連ねています。このレコードは、アンビエントではないので、フレームへの認識は前面に出てきませんが、宇多田が自らの唄の表現をしようとした時に、現在の大衆音楽の音響をどう把握するのかという前提を設定するために必要な認識者としてサム・シェパードが必要だったのだと思います。

 「BADモード」も2023年、よく聴いたレコードでした。特に楽曲「君に夢中」の中の「Ah 来世でもきっと出会う」のところは大好きで、優れた芸能者が歌う「来世」という言葉の響きは素晴らしかった。(私は、昔、浄土宗で舞踊によって教義を伝える仕事をしていた老僧侶にお会いしたことがあります。そのクイア的な身体感を忘れることができません。いつかここで語ってみたいと思っています)

 その他、書いておきたいアンビエント系のレコードはまだまだあるのですが、今回はここまでにしておきます。

 今は正月一日の午前中です。お雑煮を作って食べて、新聞を二紙購入、安倍派壊滅の方向性を追っていこうと思います。昨年は様々な権力的なるものの悪が暴露された年でした。その流れを受けて今年は、人々の良きところが大きく展開されていくことを願います。

 そして私に関して言えば、今年はこの「しずかなインターネット」を含め、文章を多く書いていきたいと思っています。昨年、その思いのきっかけになった、自分が書いた文章に関わるある小さな騒動がありました。そのことについても後日書いていこうと思っています。

 みなさま、今年2024年、よろしくお願いします。

@hirohut
渡邉裕之〇季刊「社会運動」(市民セクター政策機構)の編集者。社会的連帯経済をテーマにした雑誌です。 東京・大森の自宅で、ことばの寺子屋「かえるの学校」主催。 単著に、戦後の転用住宅を扱った「汽車住宅物語」(INAX出版)、共著に浜辺の仮設建築をテーマに「海の家スタディーズ」(鹿島出版会)。 ドブ川沿いに生まれ育ったこともあり、水辺系建築物の幾つかの本の出版にも関わっています。