⭕️今年の正月は、てのり映画で、小津安二郎を観た。
映画をコンピュータのモニターで見ることはほとんどなく、映画館に行くようにしている。しかし、てのり映画は好きなので、ときどき上映する。
てのり文鳥のように、iPhoneをてのひらにのせる。
だいたいてのひらが好きなのだ。お椀の形になるてのひら。右と左の手を合わすとすっと宗教そのものになってしまうのも面白い。頭脳線、感情線、運命線も走っている深いスペース。そこで上映される極小映画。
正月の寒い夜、布団の中で、てのり映画で観たのは二晩かけて『晩春』(1949年)と『秋刀魚の味』(1962年)の二本。いずれも娘と「嫁に出す」父親が織りなす、ゆったりとしたドラマだ。
ゆったりといっても一様なスピードの映画ではない。余裕をもった仕草や語りが印象的な小津の映画の流れに、少し異質な速さが挿入されている。
笠智衆扮する父親やその仲間が呑む酒のピッチだ。思いのほか速い。
柔和な表情の笠智衆が昔の東京弁の独特なリズムの話し方で友人の中村伸郎や北竜二に話しかける。友人たちと織りなす時間はやはりスロー。しかし、手元の動き、お猪口に酒を注ぐ手の動きが酷く速いのだ。そこにあまり飲めない女の人がいたらちょっと心配なスピードだ。昔、近所の沖縄出身の奥さんが、「日本酒は嫌い。飲みだすと助平になるから」と言ったことを思い出した。
相当なピッチ。小津がわざわざそう演出したのではないだろう。これは映画より実人生の問題だ。登場人物の会社から家に帰って着替える仕草や、娘に語る話し方がゆったりと私たちが思えるのは、現代人の身振りや語りが、映画がつくられた時代の人にくらべてせわしなくなっているからだろう。それに対して、酒の飲み方のピッチが早く感じられるのは、あの時代の男たちの勢いからくるのではないか。
この二本の映画の登場人物たちは、私の祖父や父親と同時代の戦前生まれの男たちだ。
この時代の男たちの勢いは知っている。自分はもうそれなりの年だから、今とは違う勢いのある呑み会も末席で見てきた。女郎屋に皆で行くような男たちだけの宴会、それはないが、それにごく近い性的な勢いのある会に参加させられたこともある。
私自身は酒のピッチが速いのだが、この映画を見て、ああ、自分の手元にはあの頃の勢いが残っているのかと、てのり映画をみながら思ったのだった。
⭕️しかし、この酒のピッチ、勢いはどこから来ているのだろう。江戸時代くらいまで人はこんなに酒を飲まなかったという。明治になって新たな近代社会になって、様々な組織を構成するために人脈作りをしなければならない。そのために酒の席が用意された。明治になってから人々は酒を多く飲むようになった。そんなことを民俗学の本で読んだことがある。
「秋刀魚の味」で主人公の笠智衆は、ひょんなところで海軍時代の部下、加東大介と出会う。そしてバーに二人して呑みにいく。両者は例の通り、全体としてはゆったりと、そしてやはり手元は勢いがよい。挙句に酔った加藤大介はバーのママ、岸田今日子にレコードをかけさせる。「軍艦マーチ」だ。ジャーンジャカジャカとマーチが店内に鳴り響き、酔った加藤大介は気持ちよさそうに敬礼の仕草をしパレードで行進する兵隊のように狭い店内を元気に歩き回る。
この勢い、父親や祖父の世代の人が垣間見せる、この勢いが、若い頃の私は嫌だった。この勢いがどこから来るのか。私の見立てはこうだった。日清・日露の時代からやってくるのだ。西暦にすれば1890〜1910年の頃。本などであの頃の庶民のことを知ると、その勢いに驚く。たとえば日清戦争の始まり、朝鮮王朝に対する農民暴動が起き、朝鮮が清に援兵を求めると、日本はすぐさま朝鮮出兵を行う。これに対する日本の庶民の動きが実に速い。朝鮮出兵の情報が新聞に載るやいなや、朝鮮に行き清国軍と戦う義勇軍にすぐにでも参加したいという申請が相次いだという。
当時の人々は、日清戦争に勝てば沸き立ち、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起これば、たちまち憤懣を吐き出し、そしてすぐにヨーロッパの国々の強大さに震え上がる。さらに日露戦争に勝てばまた沸き立つ。
日清・日露の時代のこの国の人々は初めて世界史に躍り出た人たちだった。あの朝鮮出兵の際の、徴兵されるのでもない、義勇軍になるというのが、その躍り出た勢いを表している。
司馬遼太郎が好きな人々はこういう。「司馬さんは、日清・日露の時の日本は素晴らしく、それ以降、転がり落ちるように太平洋戦争の敗戦に向かっていくと語っているという」本当にそんなことをいっているのだろうか。私は日清・日露の時代の日本人はダメだったと思う。あの時代、自分の身の内にある世界史にジャンプする勢いを、何か違うものにできたなら、もう少しましな現在があると思っている。
日清・日露の時代の人たちの勢いは、すぐに汚れたものなってしまった。中国や朝鮮への蔑視、アジア諸国の制圧など、世界史のステージに立った瞬間に薄汚いものに変貌してしまった。
あの躍り出る勢いについて、自らしっかり考えることができていたら、この日本もずいぶん違った歴史を歩んだのにといつも思う。あの時、どうすればよかったのだろう。自分たちの暮らしをしっかり自覚できる思想が必要だったのだ。世界史といっても、それは躍り出るステージではなく、自分も含めての世界の人々の生活から成り立っていることがしみじみと自覚できるような、例えば柳田國男や柳宗悦の思想のようなものが、もっともっと一般の日本人に知られていたらと思う。
義勇軍となって朝鮮へ行ってやるという男たちは、いつの間にか徴兵され出兵する兵士になってしまった。ただし、日清・日露の時代の勢いは、様々な形になって男たちに残ったのだろう。暮らしを捨てる無念を忘れるための戦意高揚の心情として、権力内部の闘争心として、戦場の英雄的行為として、女性への加害行為として、あるいはもっと小さく細やかなプライドを示す兵士の仕草として。そして何より、私もそうしてきた溺れる酒の勢いとして。
加藤大介が小さなバーで行進しながらする敬礼。それは、知り合いにヨッと挨拶するような、顔の前に手をスッとたてる敬礼だ。自分を見てくれる人々の視線を充分に意識したパレードの中の仕草。日清・日露の日本人も勢いが小さく残っている手の動き。私はてのり映画で確認した。
⭕️そんな父親世代の勢いを嫌だなと思っていた若い私の勢いはどんなものだったろうか。若い頃だから、それなりに勢いはあったはずだ。
韓国語翻訳家の斎藤真理子さんが、エッセイの一つでこんなことを書いていた。
「思い出すと、私が若かった1980年代の男子は、普通に『俺についてこい』なんてことは言っていたんですよね。いったいどこへ連れてってくれるつもりだったんだろうね。今となってはほんとに不思議だ。あの根拠のない自信が」(「子育ては続くよ」第四回 季刊「社会運動」431号 2018年)
そう、1980年代の男子の一人であった私も「俺についてこい」はさすがに言わなかったが、その手の勢いのある言葉は女子に言い放ってきたような気がする。「今になってはほんとに不思議だ」し、おっしゃる通り根拠のない自信や勢いがあったのだと思う。今の若い男の子を見れば見るほどそう思う。
若い私は、相手を連れていこうとする場所がどんなところか皆目見当もつかなかったが、確かにここではない「どこか」はあったように思う。その実在が信じられるくらい、まぁ風通しがよかったのだ、街も時代も。
そして今になって思うが、「俺についてこい」と当時の男の子が言ったのは、女子の手を握りたかったからではないか。手をつなぐという恋人たちの幸福の実現が、「つれていく」「つれられる」という関係性の回路を通してしかできなかったんだな。
確かにあの時代の女の子の手首は、つれられていく手首だったのだ。今の時代の若い人には当然批判される記憶の映像だ。
あの頃の女子の手首を、てのり映画を見ながら思い出したのだった。
(この手首の記憶の映像を自ら批判していくテクストを、書いていきます。よろしくお願いします)