仕事で、集落の持続可能に向けた取り組みに関わっている。
正直、仕事でなければ自ら関わることのない領域。
小学校中学年くらいのころから地域のイベントに顔を出すのは億劫だった。何を話せばいいのかわからないし、コミュニティづきあいの面倒くささのようなものを感じていた。
だから、正直今のアパート暮らしで、自治に関わっていないのは楽ちんだな、なんて思ってしまう。
でも、
集落の自治に関わってみると、地域の日常の安心感や過ごしやすさが自治によって成り立っているのだなと気づかされる。気づかされると書きながら、葉っぱの掃除だとか、たよりの作成、イベントの企画のような目に見えやすいところしか知らないのだけど。
そういうのを知ると、実家みたいだななんて思う。
ご飯も、お風呂も、掃除も家族がしてくれている。どんなことを具体的にしてくれているのかは、大人になってみないとわからない。知ろうとしないとわからない。そして、知らないと楽なのだ。
そして家も自治も、いつも誰かがやってくれてありがとう、とはいかない。世代交代をしないと限界はくる。自治の場合、対価として労賃は出る場合もあるのかもしれない。定年後の世代がやってくれるでしょ、と思いたくなるけれど、代償として時間もかかるのだ。
公民館管理のおじいちゃんはいつも言う。「俺はこんなことやりたくなくて、3Dモデルをつくりたいんじゃ。もう5年、こっちが忙しくってわすれてしまったわ」
きっと、家事と一緒で、自治もちょっと慣れたらコツとかあるのかもしれない。だから早めに多世代が知っておくことも大事そうだなって思う。
同時に、はたらき方がどんどん変わっているから、少子高齢化だから、今までのようにはいかないよなとも思う。
「ケアは、失われたときにケアがあったことに気づく」
と臨床心理士の東畑さんは言っていた。まだ、自治へ関わることへの抵抗感は抱きながらも、地域に流れるコンテクストにアンテナが立っている。