だいじょうぶ

hirono
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こちらを読んで、去年の自分への解釈があたまを巡る。

ずっと、言葉に出していたか否かわからないけれど「だいじょうぶ」と自分に向けて言い続けた1年のように思う。

同時に、言語化できないんだとも思っていたし、そう話していた。

”ただそうやって言葉を与えた感情は、ときに育ちすぎてしまう。一部の感情の種だけに肥料を与えたことで、それだけが地中に根を伸ばし、幹は空に向かってぐんぐんと育ち、沢山の葉を携え、他の弱々しい感情たちの上に大きな影をつくり、栄養も日光も独占してしまう。本来は多様な草花が雑多に生えていた……かもしれないのに”

渦中にいては、俯瞰しづらいから言語化はできないのだな、と意味づけしていたが、これを読んで、無意識に見たくないと思っていたのだとも思う。コーチングを学び、出てくる感情とただともにいて、腹落ちし、あきらめ、許すことが影を光に変えていくプロセスと知っていて、体験したことがあっても、渦中にいては感情を言葉として知り、受け入れることはむずかしい。

”私は正直、遊ぶのが苦手だ。私がこうしてずっと長文を書いているのも、ある程度論理的になにかを説明したいし、そのことで誰かを説得したい……みたいな具体的な欲が常にあるからなんだろう。いや、その欲は悪いばかりではないのだけれど。けれども、そうやって具体的な目的意識ばかりを掲げて書き育てていると、そこにあったはずの小さな草花は枯れ果て、生きる力が弱くなってしまうじゃない。”

自分のことかな、と思う。facebookとかに、簡単に自分の気持ちをぽんっと写真とともに投稿することができない。もっと端的に言葉にできたらいいのに、とわずらわしさを感じながら、投稿している。

短歌ということばは確かに、塩梅がちょうどいいな、と感じる。

でも、こうして長い文章を書いてくれるから、いまのわたしは癒されている。