「さよなら人類」(たま)の考察

廣石鹸
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公開:2023/12/28

最初に断っておくと考察というほど大したものではない。

「たま」というバンドの「さよなら人類」という曲がある。仔細は省くが柳原陽一郎氏作詞作曲のポップなメロディに、抽象的な終末的世界観の歌詞を載せ、割と楽し気に歌い上げる曲だ。

人類が木星に初めて着いたり、その一方で原始人になる日も近づいたり、犬の目玉が四角になったりと目まぐるしい内容の歌詞だが、少し前にこの曲の内容を人と話していて、歌詞の一部分が明らかにとある合唱曲のアンサーソング的な内容に見えることに気が付いた。

その合唱曲とは鶴見正夫氏作詞、荻久保和作曲の混声合唱組曲「IN TERRA PAX」の三番曲「花をさがす少女」である。

これまた曲の仔細は省くが、内容的には少女が戦火の中、花を探してさまようが結果的に飛び散っていなくなってしまうという、戦争と平和的な内容である。

そしてこの曲の中で少女が探している花というのが「ブーゲンビリヤ」なのである。この花を探してさまよっているうちに爆弾か何かで少女は砕け散っていなくなってしまうのである。

さよなら人類側の後半でも「あのこが打ち上げた花火」で「僕らの体が砕け散る」あとに「ブーゲンビリアの木の下で」あの子を探すものの「あの子のかけらが見つからない」という歌詞が出てくる。勝手な想像だが「さよなら人類」は「花を探す少女」を男児側の視点に裏設定した曲なのかもしれない、というのがこの記事で書いておきたいことである。

なにより「さよなら人類」は冒頭から二酸化炭素を吐き出さないと生きていけない生物の、生きることそれ自体が終末へ向かってしまう原罪的な視点から始まっている。

誰の責任なのか?誰のせいなのか?を曖昧にし続ける「さよなら人類」の歌詞は、物心が微妙につかない幼い男児の死後の視点から、「花を探す少女」の無垢さと対比しシニカルに人類の発展と争いを見た曲なのかもしれない、というなんというか完全に妄想ですありがとうございました。

@hirosekken
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