好きなものが自分しか好きじゃなくても、もうそれでいいじゃんと思うようにすると決めた。
自分はなぜかマイナージャンルばかりを好きになってしまう。好きなアニメの話をしても、誰も見てないし、好きな漫画の話をしても誰も見てないし、好きな音楽の話をしても、誰も聴いたことがない。
何を話しても、自分が感じている胸の高まりは、ただの動悸と区別がつかないのである。
多くの初対面の人はさることながら、ある程度意気投合し仲良くなった人でも、私と同じジャンルの作品を触れてないことが多い。
そのためさすがに偶然を疑うことすら諦めるほど歳も取ったので、冒頭の決意に至ったのである。
そもそも、世の中の誰しもが共感されたいと思っている。なぜなら、共感をえることによって、確かに世界(社会)に存在していると思えるようになるからだ。
たとえばマッチングアプリではマッチングしたら、まず初めに共通点探しが始まる。
趣味はなんですかー、兄弟はいるんですかー、好きなアニメはなんですかー…といった具合に。
そうやって、小さくジャブをうち続けて、ピタっとハマりそうな話題が見つかったら、それを深堀りしていく。全く共通点が見つからないと、ジャブをうち続けて1日が終わっていることもある。
なんか人間との営みの縮図をこれの繰り返しと思ってしまうのは、先入観にとらわれている気がする。
人から好かれなくても良い。人間が一生のうちで親交を深められる人なんて数人しかいないのだから、付き合いが短い人とは、どうやったら相手が気持ちよくなれるかを考えている。
好きなものの話をして、共感されると、気持ちいい。
だから、相手の好きの話をよく聞いてあげようと思う。
自分はこの時、サキュバスになったような感覚になる。
精液を搾り取るように、相手に好きなものを語らせる。
相手が気持ちよさそうにしているのを見ていると、報われなかった自分が別の世界線で報われたような気がしてくる。
だからか、自分は人と会話するときに、自分の共感欲を満たすということは諦めていて、善行を積むくらいに捉えている。
いっぱい出たねって言って、相手の満足そうな顔を眺める。
文章にしてみて、サキュバスというのが哀れな生き物何じゃないかと思ってきた。
うまく生きるために相手を気持ちよくする。当の本人はそれが解消されないからこそ、他者を媒介して、願いを実現しようとしているのではないだろうか。
救われてほしい。人間も、サキュバスも。