なにか感動したものを表現するときに、すぐ「とても」とか「めっちゃ」をつけて、その感動の大きさを表現したくなってしまう。だが、あまりにもすべてにそれらをつけてしまうために、その価値がどんどんインフレして落ちていくのを感じる。逆に薄っぺらく感じてしまうし、語彙力のなさを露呈しているようにも見える。会話ならまだしも、文章となると、途端に悪目立ちしてくる。そもそも、なにかを文章で残そうという行為には、私の感動から起点になっていることも多く、つまるところ、すべてに「とても」とか「めっちゃ」と付けられる可能性を持っているわけで、それを思考停止に表現している現状に反省している。なにか現実的なものと比較して、そのものの大きさ、偉大さを語るならまだしも、こういった副詞にはすべてに対応できる汎用性の高さがあるのが、厄介さを際立たせている。
語彙力、表現力の乏しさを改善するために、最近は意図的に小説を日常で読むようにしている。形容詞的な表現の幅を広げて、感動を多面的に見つめたい。どれもこれも、めっちゃよかった、としか言えないのは、朝見た夢を思い出そうとするようで、さみしい。
意図的に抑え込むと、あまりにも自分がその魔力に頼っていたかがうかがえる。あまりにも簡単に大きくみせる。もっと本質を理解し、それを咀嚼するゆとりを持つべきなのではないのかな。