生きている理由みたいなものはとっくの昔に考えなくなった。積極的な死ぬ理由がないから生きていると思ってもいいし、思わなくてもいい。それくらいの温度感であっても、少なからず生きているからには、少しはなにか希望を持っているものだ。例えば、HUNTER×HUNTERの続きが読みたいとか。
自分はあまり今を楽しみに生きていない気がする。未来へのひとつまみの希望が、馬に吊り下げられた人参のように、私を走らせる。
今という時間が早く過ぎ去ってほしいと考えるときがある。先行きの見えない不安が、ほんのり自分の周りただよって、息苦しくさせる。できることなら気絶していたい。平日は特にそう思う。
そうすれば、HUNTER×HUNTERの新刊は読めるし、給料日はすぐ来るし、積立NISAは積もっていくし、Appleは新製品を出すし、技術は発展していき、医療は進歩する。
気絶しなくても、そのあいだに何もしなければいいと思うかもしれない。
私は何もしていないと考え事をしてしまう。これは自動的にで、考え事をしているあいだは、休息がうまくできていない気がしている。そのため、本当の意味で休息を取りたければ、何かをすることによって、何も考えないようにするしかない。それは食器を洗うことかもしれないし、洗濯物をたたむことかもしれない。寝ることも何かをすることに含まれる。
だからなのか、平日にすることが仕事だったのはある意味幸運だったのかもしれない。仕事をしているあいだは、仕事のことだけを考えていればよい。
仕事はなぜか、仕事に関係があれば狂ってもよい(狂ったほうがよいとされている)ので、いくらでも非現実(何を現実とするかは人それぞれだが)の世界に身を置ける。まぁこれは裁量がそれなりに確保されている人間の考えかもしれない。
平日は時間をやり過ごすように生きている。会社で制作して、家で個人の制作をして、そして寝る。
制作をしていれば、現実(私の中ではお金とか、生きることとか、人が私のことをどう思っているのとか、そういうこと)の問題に目をつむっていられる。そうやって時間をやり過ごして、生きている。
創作や仕事は私にとって、気絶していることと、相違ないのかもしれない。
できることならずっと眠っていたい。そして、HUNTER×HUNTERが完結したら起こしてほしい。