フィクションはときにリアルを凌駕するときがある。ページをめくるたびに手に汗が握るほど緊張感が生まれることもあれば、登場人物の感情の機微に涙を流すこともある。
ワールドトリガーの最新刊(27巻)が昨日発売された。もちろん最新刊もおもしろかった。漫画は基本的にKindleで買っているのだが、ワールドトリガーはKindleと紙本どちらも購入している。
紙で最新刊を読むと、積み上がった既刊にも手を伸ばして読み返したい欲が高まる。ふと26巻を読んだ。照屋ちゃんの「頼むっていってください」のシーンで泣いてしまった。臨時諏訪隊が臨時北添隊にボコボコにされて、香取が「華やるじゃん」といったところで泣いてしまった。でも、この感情は共有できない。まわりに同じ趣向の人間がいないからでもあるし、私がその刹那的に感じた感情の洪水をうまく文章化できないので、ブログにもできない。
良かったよね。うん、よかった。
そう言いあえるだけでいいのかもしれない。自分もまた、他人が良さを感じる作品に同じ熱量で感動できないのだろう。
ひとはわかりあえない。
涙を流すときは決まって孤独を感じる。この涙の意味を知ることは誰もできないし、それは私がちゃんと握りしめていないと、この世界に存在しているかも怪しくなる不確かな存在なのだ。
チー付与を読んだときの、あの湧き上がる熱量を、ドキュンサーガを読んだときも、ハイパーインフレーションを読んだときも、出会って四光年で合体を読んだときも、ミューズの真髄を読んだときも……。
魂が震えたときの音を私だけが知っている。これを私が忘れないようにするためにはどうすればいいのだろうか。
もしかしたら創作は魂の震えを保存するための保管庫なのかもしれない。
この震えを自分というフィルターを通して、他人に届けることによって、また、誰か一人でも魂が震えてくれれば、私たちはわかりあえるのかもしれない。
私はすがたかたちを変えてわかってもらいたい、地球外生命体なのかもしれない。あの手この手で言語化できない感情を伝達する。そういう生き物かもしれない。