趣味がない、みたいなことをよく言っていたが、しっくりくるものが通勤中に思い浮かんだ。
時間とお金のことを忘れることが趣味なのではないかと。
私は気を抜くと、すぐに時間とお金のことでいっぱいになってしまう。これは私に限った話ではなく、人類全体に言えることだと思う。人類は管理するためにこの概念を作り出したのに、私(たち)はこの概念に管理されている側のような気がする。
すべての行動にこの概念は介入してくる。ご飯を食べようと思ったときに、これはいくらか?、高いのではないか?、賞味期限はいつまでか?、この料理はどのくらい時間がかかるか?
本当はそんなことを考えたところでしょうがないものも多く、ただリソースが限られている以上、自分の持てる範囲で最適な行動を選択したいという欲もまた生まれる。
これらからはストレスと欲しか生まれない。当然、お金に関してはお金と代償によりよいものに引き換えることもでき、日夜、破産しない範囲で上質なものをどこまで得られるか私は私とチキンレースをしている気がしてならない。
なので、それらのことが自然と忘れられることはとても喜ばしいことである。具体的には散歩、創作、読書、会話、ゲームなど。
そうしたら、その具体的に挙げたものが趣味なのではないかと思うのだが、それらが一生できなくなっても(時間やお金のことを忘れられる代替手段があれば)なんか許容できてしまう気がするので、それぞれ具体で挙げたことは生きがいになりえず、よって趣味ではないのだ。ようは時間やお金を忘れられればなんだってよい気がする。
逆も言える。趣味というのがそもそもそれを目的としたものだったのかもしれない。時間や金を忘れたくてやる営みが、いつしか具体を伴った活動になったのかもしれない。
まぁ私にとってはどちらでも良いのだが、他人に趣味を開示しなくてはいけないときには考えものである。ニワトリが先か、タマゴが先か。