【卒論】「お笑い」について考えていたら、ラカンの「愛の定義」を理解してしまった話

日和見雛
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はじめに

 卒論のテーマは「お笑い」だった。先日、卒論を書き切り、発表会も無事終了。己の惰性なのか、好奇心なのか、締切直前になって参照する書籍を追加したり、構成を変更したりとドタバタなまま卒論が完成して今に至る。そんなわけなので、落ち着いた今改めて卒論について振り返ってみたいと思う。

 しかし、ただ卒論の要旨を振り返るのではつまらない。私は卒論の執筆者であると同時に読者である。この特権性を活かして振り返りたい問題がある。

なぜ私の卒論は、「お笑い」をテーマにしていながら、ラカンの「愛の定義」を理解することになったのだろうか。 

 私は、ラカンの「愛の定義」を理解してしまった。執筆者としては、完全に棚からぼたもちな出来事であった。この問題について今、読者として執筆者に尋ねながら考えてみたい。

 

卒論のテーマ決め:「お笑い」をテーマにした理由

ゼミは精神分析 

 まずは卒論を書くまでの経緯について簡単に振り返っておこう。ゼミでは、ラカン派精神分析を学んだ。格好つけずにいうと、サブカルチャーについてみんなで雑談しながら、ちょいちょい精神分析家のフロイトやラカンの理論と関連付けたり、関連付けなかったりしていた。

 たとえば、アニメや恋愛の話をしながら、「他者とどう付き合うか」という根本的な対人関係の話をよくしていた。私は特に恋愛に悩んでいたので、「愛って何なの」が口癖だった。学部3年生までとにかく愛について考え、ゼミでも愛の話ばかりしていたので、卒論のテーマも愛になると思っていた。

 そんな中、4年生になると卒論のテーマは「お笑い」になった。

テーマ決め

 4年春。私は卒論に向けて問題意識を ” 4L ” にまとめた。この作業によって、Love(愛)を論じてばかりな自分にとって、今論じるべきはLough(笑い)であると気づくこととなった。

  • Life 人生

  • Living  生活

  • Love 愛

  • Lough  笑い

 3年生までLove(愛)しか考えていなかった。だがそもそもなぜLoveが大事なテーマなのかと考えてみると、他にも問題にすべき ” L " があると分かった。

 最も根本的な問題は、Life(人生)。恐らく多くの人が思春期に悩むことである。「なんで生きているのか、何をして生きていけばいいのか」という漠然とした疑問や不安である。私にとってこの問題は大学生になっても健在だった。しかし、これではあまりに漠然としたままで不安が不安を呼ぶだけ。そこで、この問題を具体的な実践として捉える必要があった。それがLiving(生活)という問題なのである。

 Livingでは、私がどんな生活を送っているかが問題になる。人生に悩んでいる<私>が、実際どんな生活を送る中でそうした疑問に駆られているのか。そこでのキーワードとして、私は「ファストライフ」というコンセプトを構想した。3年生から4年生になる春休みのゼミ課題として「ファストライフ」について論じた。ここでは手短にそこでの問題意識を共有したい。

 「ファストライフ」の着想は、日々の生活すべてがまるで「ファスト映画」のように過ぎていくものであるという感覚に基づいている。映画であれば、その映像に没入して様々な感情体験をする。一方でファスト映画では、その物語の展開の構造だけを把握することで、まるでその映画を見たかのような体験をする。正確にいうと、物語の構造を知ることで、実際に映画をみたらどんな感情を体験するかも知るわけである。その意味で、ファスト映画とは、映画を短縮するという以上に感情体験の短縮とも言えるわけである。

 SNSでもショート動画が流行しているが、そこでの体験は、知っている感情をなぞる程度のものでしかない。これが日々の生活に蔓延し、人生自体がファスト化しているというのが「ファストライフ」の要諦である。単なる映像娯楽の消費を超えて、どのようにあらゆる生活領域に「ファスト」が浸食しているかは割愛するが、少なくとも私にとって「ファストライフ」という問題意識が根深いものであったことが共有したところで話を進めていこう。

 春休みに以上のような議論をした時に、ひとつの疑問が生まれた。では「ファストライフ」において、「ファスト」ならざるもはなんなのか。

 すぐに思いつく代表的なものは、Love(恋愛)だろう。これが三つ目のLであり、私が当然のように議論したがっていた領域である。Loveとは安直にいってしまえば、具体的な他者と長期的な関係であり、その内実はファスト化できない。なぜなら、その内実は本質的に未知の探求にあるからだ。

 ここでは分かりやすく言語的に示してみよう。「愛とは何か」を考えても、私たちはすぐに行き詰ってしまう。というよりも、行き詰ること自体が愛の本質だと感じるわけである。このことが腑に落ちてしまった以上、今の私には愛をこれ以上論じるのは難しいように思えた。なぜなら、愛はその「行き詰まり」を反復することがその内実であるため、私はただひたすらに愛する意思を示し続けるほかないからである。

 だが、愛の思惑通りに「行き詰る」だけではLife(人生)の問題意識は解消されない。4Lという問題意識の整理で気づいたのは、Loveの領域が本質的に未知であり、そのことを知ったという成果に対して、私のより上位の問題意識が満足していなかったということなのである。

 この差分を埋める4つ目のL。それがLough(笑い)だったのである。私には、笑いには少なくとも愛と同じ程度の熱量で論じる必要があると思えた。なぜなら、笑いは愛を論じるのとは別の道で、Lifeという同じ問題に結びつくからである。

ラブからラフへ

 愛と笑いは、異なる道を取りながら同じ問題につながっている。同じ問題といっても、それは究極的にはLifeという漠然としたものなので、問題は解答の先に立たない。このような議論の目標は明確な問題に最適な解答を与えることではなく、先に解答を準備することで問題を修正することにある。だからこそ、まずは愛と笑いが、どのようにしてその道が異なっているのかを明瞭にしなければならない。

 ひとつめの違いは、「愛している」、「笑っている」というそれぞれのイメージについてだ。先に、「笑っている」人は、直接的なイメージで分かるだろう。「わっはっは」と断続的な呼吸として現象するものだ。これは、自分自身が「私は今笑っている」と理解できるものでもあれば、他の人が「笑っている」と理解できるものでもある。

 では、愛はどうだろうか。どのような形で、自身自身が「私は今愛している」と理解できるのだろうか。あるいは、他の人が「愛している」と理解できるのだろうか。笑いに比べると直接的なイメージは湧かないのである。笑いのように具体的に身体には現象しない。唯一それが現象するのは、まさに「愛している」という発話・表明である。ここで興味深いのは、愛においては「愛している」という発話こそが、それを現象させる術であり、その内実を豊かにする効果をもつのに対し、笑いでは全く逆の展開を迎えることである。ただ身体反応として笑っていればいいものを、「笑っている」「ウケる」などと口にすることは、笑いという現象を盛り下げる。換言すれば、愛は言語によって現象するのに対し、笑いは言語によって消滅する、あるいは笑いは言語を排除する。

 この対比では、笑いは言語を排した「素朴な」自分の身体反応のように思え、一方で愛は言語を介した複雑な精神活動のように思えるかもしれない。だが次に考える別の視点では全く逆の印象を覚えるだろう。

 それは愛と笑いにそれぞれの住所を尋ねてみることで分かる。愛はどこに住んでいるのだろうか。もちろん、<私>と具体的な他者との「関係性」なわけである。そういう意味で愛は、<私>の人生的な疑問や不安を解消する具体的な頼りを有する。一方笑いでは、その最低限の原理によればテレビの前でたった一人で笑うこともあるわけだ。やや意地悪な言い方をすれば、愛では手を取り合って互いを見つめ合うのに対し、笑いでは相手との相互関係をもたずただ、一方的に見つめ笑うのである。

 しかしながら「笑う」という一人の現象においても、何か人生的な疑問や不安に効いているように思えるのである。ここが卒論において根本的で難関な問いである。つまり、恋愛のような具体的な相手との相互関係がなくても、ただ一人で笑っているだけで、どうやら「誰か」と繋がっているようなのである。そのようにして、世界から<私>が締め出されれているという人生的な問題は解消される。

 以上のような愛と笑いの対比を詩的に言い換えてみよう。

愛とは、具体的な他者にはじまる通行止めな道である。笑いとは、孤独にはじまり、いつのまにか他者へと続いている道である。

 私は最後の大学一年間で笑いについて論じなければならないと考えたのである。

「お笑い」という笑いの原点

 笑いという現象の根本的な原理が露呈するのは、ただ一人で笑う時である。ここまでの笑いに注目する経緯から、ただ一人で笑う現象について理解を深める必要があった。そこで「お笑い」の出番だ。今日のお笑いでは、テレビといった映像メディアを中心に、「お笑い芸人」は非同期で不特定多数の「視聴者」を笑わせようとする。そして、まんまと私たち視聴者は、その映像を見て笑う。まさに笑いという現象の最低限の原理だけがそこにあるのである。

 そのようなわけで、私は「お笑い」を論じることになった。お笑いを論じるといっても、何も芸人のネタや番組の種明かしのようなことをしたいわけではない。あくまで、お笑いを笑うというこの端的な行為が、いかにして「誰か」に繋がっていくのか議論していくのである。

卒論の内容 :なぜ「お笑い」から愛が産まれたのか

卒論の構成

 以上のようにテーマ決めによって、私はお笑いを論じることにした。そのため卒論に愛が登場する予定はなかった。しかし、愛は現れた。それは、公園で砂遊びをしていたら温泉が湧いてしまうくらい偶然なもので、突如として起きたものだった。ここでは、卒論での簡単な流れから、愛の登場について説明したい。

 卒論の構成自体はシンプルな三段構成だ。まずは、お笑いとは何か論じる。単純化していえば、お笑い芸人たちの行動原理と、それを見て笑う視聴者の視聴態度について議論していく。

 次に、笑いとは何か論じる。ここでは、お笑いを「ただ視る」という視線の哲学に重点を置いて、笑いとは何なのか議論していく。

 そして最後に、なぜ「お笑い」を笑うのかという主題に解答する。

 このように構成だけまとめるとなんだか味気ない。そこで自己満足のために無駄にこだわった目次を添付しておく。私が小説嫌いな理由の一つは目次がつまらないからである。また好きな本は大抵目次で心躍らせてくれた。数年後の自分がこの目次に心躍るかはさておき、今は満足である。

卒論の二段目で愛に近づく

 この構成の中で、議論が愛に接近していったのは、三段構成の二段目のことである。笑いとは何か。このことを哲学的に論じていく際に、愛はすぐそこにまでやってきていたのだ。

 そのあらましを簡単に述べよう。まず大前提として、笑いについての哲学的議論はごまんとある。しかし私の考えでは、多くの議論はメディアを笑う=ただ視て笑うという特殊性に対して十分な考察をしていない。

 ただ視ること。それが笑いという身体反応に帰結すること。この事象に対して哲学的な洞察を得るために、卒論では「ノスタルジー」をキーワードに先人たちの議論を批判的に検討した。導出の詳細は省くが、私はフロイトやベルクソンにおいてノスタルジーの対象として「子ども」たちが眠っていることを指摘し、その議論をノスタルジーの本質によって修正し、「子ども」を起こした。

笑いからこぼれ落ちた愛

 その辺りの議論は今回はどうでもよい。ともかくその議論の際、フロイトやベルクソンの議論を用いて笑いについて考察したジャン=リュック・ジリボンの『不気味な笑い』も取り上げた。その訳者解題も手がかりにして議論したのは、愛情表現と呼ばれるような個と個の特異な関係性は言語的秩序という一般の水準に準拠するふりによって可能だということである。ここで笑いから一つ愛がこぼれ落ちた。まずはその議論の詳細を見てみよう。

 誰かがウィンクをしながら「いけない人」と言ったとする。この時、それを額縁通り受け取ることはない。しかし一方で、まるっきり反対の意味として取ればいいのかというとそうでもない。それを言われた人は、言われたとおり「いけない人」でありつつ、言われたとおりの「いけない人」ではない。「いけない人」という音声(記号)は、その意味する内容がズラされるのである。本来の言語的秩序であれば、「いけない人」という記号は「いけない人」という内容を示すのであるが、それがズラされるのである。

 この言語的秩序がズラされることが笑いの源泉であるというのがジリボンの議論なのであるが、その辺りは割愛する。

 今回大切なのは、そうした言語的秩序のズレによって、愛情表現と形容されるような個人的な親密な関係性が形成されるということなのである。ここで示唆されるのは、笑いを生み出す原理が、また同時に愛情表現として現象するということである。笑いの哲学をめぐって、愛の芽のようなものがこぼれ落ちたのである。

加速する愛

 このような経緯から笑いの哲学は<私>と<他者>の特異な関係性が論点となった。言語的秩序をズラすことが「愛情表現」と解される。新たなものを生成するという余剰性が個人的な関係性との連環によって成立する。このシンプルだが妙な連環が論点だった。

 前提として、<私>と<他者>の根本的な関係性を抑えなければならない。それは<他者>が、まさしく他者であるための性質=他者性とは何なのかを抑えることである。

 端的にいって、<他者>の他者性とは<私>への現前から逃れていく性質である。たとえば、<私>は<他者>に触れることができるし、まなざすことができる。この時、二つの作用が生じている。ひとつは、求心化作用である。これは、<私>に対して対象の性質が積極的に現前する作用である。触れたり、まなざしたりすることで<他者>という対象の性質は現前する。しかし、ここで現前するのはあくまでその「対象」というポジションに甘んじた限定的なものでしかない。この求心化作用に対して、<私>への現前から逃れる・現前に回収されない形式によってしかその存在を知ることができないものがある。この作用が遠心化作用である。触れたり、まなざしたりすることで<私>は、<他者>に「触れられていること・まなざされていること」を知ることができる。しかし、その<他者>の能動性を<私>に現前させることはできない。<私>に向けられた「触れたり、まなざしたりする能動性」そのものを捉えようとすれば、たちまち私の触覚や視覚の対象へと転じてしまうのである。

 さて、このような基本的な<他者>の本質について、大澤真幸は愛の観点を持ち込む。ここから愛のボルテージが高まっていく。

小悪魔の証明

 といったものの、ここでの愛は、大澤の議論の単なる咀嚼をそのまま提示するものに過ぎない。大澤は、他者論の一環として愛には憎悪が不可欠であると主張する。それは厳密に言語学的なテーゼであるが、私たちはそのテーゼを即座に理解できる日常を生きている。

 「なんで私のことが好きなの?愛するの?」という質問がいかに難問なのかを私たちは知っている。証明不可能な「悪魔の証明」に匹敵しながらも、そのやり取り自体に可愛げがある、これはいわば「小悪魔の証明」である。「可愛い」だとか、「気品がある」だとか、対象の性質を積極的に記述すればするほど、「では他の可愛い人、気品がある人でもいいのでは」となってしまう。正確に言えば、対象の固有性は対象の記述可能な属性には還元することができないのである。

 大澤は愛において志向されているのは、対象に積極的には特徴づけられない「それ以上の何か」であるとする。「それ以上の何か」を現前する唯一の方法は、対象に「不足しているもの」として、つまり否定性を帯びた形式として示すというものである。愛する対象は、特異的な欠点や歪みを有することで、その否定性を通じて「それ以上の何か」を暗示するのである。

 ここで示した愛の哲学は、否定によって暗示されるものの存在と、それが志向されることもあるという一つの例証の域を超えない。

そして、ラカンは現れた

 笑いの哲学にはじまり、他者の不可能性を議論してきた。三段目のお笑いを笑うという問題に繋げるためには、この不可能性を前提にしながらも、<私>が<他者>と関係を結んでいくダイナミズムについて考えなければならなかった。

 その方策の一つとして大澤は、他者論と密接な形で愛の哲学を示した。一方で、お笑いを笑うことを問題にしている私にとっては、愛とは別の水準で他者論を捉えられるような差異を見極める必要があった。つまり、ジリボンの笑いの哲学から愛の哲学の芽がこぼれ落ちたように、今度は大澤の愛の哲学から、お笑いを笑うという哲学の芽を探し求めたのである。

 その過程で私は突如、ラカンの「愛の定義」を理解してしまったのである。まずは大澤の愛の哲学をみてみよう。

他者を愛するということは、自己の行為(中略)を、他者の体験にとって有意味であるように、定位することにほかならない(大澤真幸『恋愛の不可能性について』,春秋社,1998年.,p.59.)

 「自己の行為」という能動性に先行して、「他者の体験」における「有意味」さが志向されなければならないという掟こそが、愛に悲劇的な神秘さをもたらす。先述したように、<他者>の他者性とは、<私>の現前から逃れるという性質だった。「他者の体験」とは、<他者>にとっての現前であり、それを<私>が推し量ることは厳密には不可能である。また逆に、<私>の能動性も<他者>には正確にはトレースされない。さらにいえば、<私>ですら<私>の能動性を十分に現前させることはできない。<私>の知らない<私>はごまんといる。このような不可能性を前にしながらも、その克服を目指し続けることを要請するのが愛なのである。

 つまり、愛は意志なのである。その達成を願い何度も試みることが愛を構成する。逆にいえば、愛は構造的に完遂されないからこそ、愛なのである。この構造的な完遂不可能性の根拠が、<他者>の他者性である。

 そして、この他者論に内在するのは、<私>は<私>を掴み損ねるということである。にもかかわらず、愛は<他者>に有意味であるように<私>をチューニングするように要請するのである。

 この奇妙な構図に十分な手ごたえをもつとき、ラカンの愛の定義はいとも簡単に理解される。

愛とは自分のもっていないものを与えることである

 これがラカンの愛の定義である。

 そして、ジジェクはラカンの定義に加筆する。

それを欲していない人に

 つまりこういうことなのである。愛とは、<他者>の他者性という不可能性に際して、その不可能な領域を互いに不可侵なものとして共有することなのである。その実践が「私に現前しない私の能動的な愛をあなたに届けたいという」意志、自己言及的な営みなのである。そして、それを「相手が欲していない」のも当然のことである。何かを欲するということは、その内容に関わらず自分にとって現前するものであるという前提に立つことになる。相手が欲するのは、現前しえない不可能性なのである。

 このように愛がなぜ意志であるのか示したことで、「ただ視る」笑いとの差異が示唆され、卒論は第三段階に向かう。ラカンの愛の定義はちょっとした寄り道で登場し、登場と同時に理解されたのである。

ラカンの登場の斬新さ

 ラカンの愛の定義について深掘る前に、卒論を書いていた時の心境ついて記しておきたい。他の人がどのように思考しているのか分からないが(私の現前から逃れる!)、少なくとも私がしたことのない思考体験をラカンはもたらした。ラカンの愛の定義が思考に登場した時の興奮は、その登場の仕方の斬新さによるものだった。

 そもそも、思考とは、大澤真幸に則れば「概念」と「想像力」の組み合わせである。私の認識で言い換えれば、「他者の思考」と「想像力」の組み合わせである。ここでいわんとするのは、今の私にとってのあらゆる他者(過去の自分も含む)による思考を、今の私がその想像力によって変形したり、変奏したりするということである。

 このような思考観では、その常套手段として想像力を二段階の作業に分割する。第一段階は、概念(他者の思考)を召喚する作業。第二段階は、召喚した概念が有意味になるように変形・変奏する作業。単純化していえば、たとえば「愛とは何か」という問いに対して、いくつか「愛とは~である」という概念を召喚してみて、召喚してから、それらがどう関係するのか考えていくということである。そして、この作業を経て形成された「私の思考」もまた概念の一つとしてストックされ、次なる想像力の傘下に入る。

 このような思考は、あくまで一人でものを書く時の態度であろう。反対に、誰かと議論する時には、この作業がそれぞれの役割に振られる。自分の言葉は誰かの想像力に入り、誰かの言葉は私の想像力によって思考を推進させる。

 卒論で一人ものを書くなかでラカンが登場した時というのは、まるで誰かとリズミカルな議論をしているかのような心地だった。ラカンの愛の定義は、私が気づいた時にはもうそこに記されていたのである。自分が今までしてきた思考が、その周辺の「類似概念」、「関連概念」を召喚し、それに想像力を加えて推進してきたものだとすれば、今回のラカンの登場は、正面衝突である。それもぶつかるまで互いの存在に全く気付かないものである。

 そして、思考の本質に矛盾するような心境にも至った。思考とは、いうなれば次なる思考の準備である。つまり思考は終わらないはずなのである。しかし、ラカンの愛の定義と正面衝突した時の私は、魂が抜けるように、あるいは自分の最期を悟ってこぼれるような微かなため息とともに、満足げに笑っただけだった。

ラカンの「愛」の定義をめぐって

「愛の定義」と初めて出会った時の衝撃

 2年生の春、ラカンの「愛の定義」にはじめて出会った。余談だがが、その出会いはゼミではなく、英語の授業でのことだった。哲学者ジジェクの『ラカンはこう読め!』を英語版で読む授業で、事実上語学よりも精神分析について学ぶことになった。日本語に翻訳しようにも何をどう論じているのか、さっぱり意味が分からない。語学力以上に、思想力を試されていた。その最たるものが「愛の定義」についてだった。

ラカンによる愛の定義 ──「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ──には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」(スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳、紀伊國屋書店、2008年、83頁])

 「自分のもっていないものを与える」とはどういうことなのか。しかも、「それを欲していない人に」与えるというのだから、意味が分からなかった。

 普通の授業なら、その「真意」を説明するために、より詳細な文脈を示してくれたりしそうなものであるが、先生は私たちに「じゃあ各自、何を与えるのか具体的に考えてみましょう」と学生にグループディスカッションをさせた。半分戸惑いながら学生たちは自分の考えを共有した。「思いやり」だとか「尊敬」だとか、どっかで聞いたことがあるようなことしか思いつかない人が大半で、私もその一人だった。自分がその時何を言ったのかは覚えていない。唯一覚えているのは、グループの一人が言った愛の定義である。

愛とは、”愛されたい”意思を与えること

 私は衝撃を受けた。「あなたに愛されたい」という「自分のもっていないもの」を、「それを欲していない」相手に与える。背伸びのない、諦観を帯びたこの言葉が印象的だった。文系学生が高校の生物基礎レベルの比喩表現でいうと、相手の愛を受け入れる「ホルモン受容体」が準備できていることを示すことが愛なのである。この定義では、ホルモンのように何かが、互いを行き来する必要はない。ただ、お互いが「あなたに愛されたい」と自分の受容体が開いている様子を相手に見せるだけでいいのである。

 このようになぜか「ホルモン受容体」を適当に使いながら自分の中で、愛の定義の深淵の一端を覗いていた。

愛の定義を理解してしまって

 ”愛されたい”意思を与えること。この与えているようで、ただ要求しているだけの姿勢は、ともすれば空虚でまやかし的な響きがするかもしれない。しかし、ラカンの愛の定義が示すのは、<他者>が<私>の現前から逃れるという宿命に巣くう他者との関係の空虚さやまやかしを一掃する方策である。

 <私>が所有できない<私>を、それを欲していない相手に差し向ける。また、相手は<私>に「愛されたい」と言っている。これは矛盾ではない。<私>の愛を欲していないのに、「愛されたい」と言っているのではない。「あなたのお金で焼肉が食べたい」でもなければ「あなたの遺伝子で優秀な子どもが欲しい」でもなく「愛されたい」と言っているのは「あなたに苦悩し続けてもらいたい」ということなのである。他者という不可能性の宿命に悩み、苦しむことでしか、利害を超えた原初的な繋がりは得られないのである。だから、<私>には何も欲さずに「愛されたい」と隣で言い続けるのである。

おわりに

 お笑いを笑う。このシンプルな事態に深遠なものを見出そうとしたのが卒論だった。深遠さとは、私にとっては本質的な他者との関係性、つまり社会性の浮上にある。私が独りなのか、一人なのか。あるいはそんな主語さえ消え去っていくのか。

 この普遍的な問題意識は、論じる対象が何であれ私を愛に誘っていく。だが、逆にいえば、愛にお誘いいただくまではそう易々と近づいてはならない。愛は考えるものではなく、自分のもっていないものを与えるものなのである。

@hiyorimi_hina
新社会人。大学で醸成された文学部スピリッツをもってサラリーマン哲学を構想するべく奮闘するも、玉砕。