「自分で考えろ」と言わない優しさと言われない残酷さ 『ワールドトリガー』【245話】

日和見雛
·
公開:2024/9/7

本誌最新話ネタバレ⚠️ 

才能は下の中。周囲の環境にも特別恵まれている訳でもない。それでも主人公・三雲修には実力がある。遠征選抜試験編の裏主人公・麓郎は、そんな「持たざる者」三雲と自分の違いは何かと賢者に尋ねる。麓郎は、三雲と自分は非力な分「地道に努力を重ねるタイプ」だと分析し、だからこそ三雲の強さのヒミツが分かれば自分も成長できるはずと考えたのだった。

 すかさず賢者は問いただす。麓郎が言う「地道に努力する」とは具体的に何をしているのか。銃を使う戦闘員の麓郎は、その道の達人を師匠にして射撃訓練に励んでいると答える。といっても、特別射撃のコツを教えてもらう訳ではなく、「自由にやれ」と言われるがまま基本的な訓練に励み、時より手直しをもらう程度だという。それでも、訓練中に師匠は常にいろいろ話しかけてくれ、それも勉強になっているようだ。この師弟関係も半年前から行っている。

 賢者はさらに問いただす。では、麓郎はこの半年で何を得たのか。麓郎は戸惑いながら、射撃の腕や、達人の知恵などと答える。

 賢者はこの問答で、麓郎と三雲修の違いを把握した。

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 読者は思った。あー、目下「努力」をしている気になって、何のために努力するのかといった目的意識や自分が何を成し遂げたいのかという目標が無いことが、主人公と裏主人公の違いなのだろうか。

 すかさず読者は自問自答した。では、その目標なり目的なりというものは、持とうと思って手にすることができるものだっただろうか。結局、才能がない人間の問題点を才能がないことと指摘するほどに無意味な指摘なのではないだろうか。

 たしかに、主人公・三雲修は明確な目標をもち、それに対する執念もある。だが、それは読者界隈では「死に急ぎ」と言われるほどの狂気によるところも大きい。この狂気の由来自体は『ワールドトリガー』の最も重要な謎の一つであるのだが、少なくとも目標意識だとか言っているだけでは不完全燃焼なのは明白である。

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 当然、読者よりも賢者は本質的な違いを把握している。だが、賢者はすぐには麓郎に伝えない。まずは、麓郎の師匠に相談することが筋だと考えた。麓郎の師匠も当然彼の弱点を把握していた。その最たるものが「自分で考える力」だった。

 「自分で考える」とはどういうことか。師匠は、麓郎は多くの人に助言をもらいにいくが、それを咀嚼するだけの器がないと考えていた。師匠の独特の言い回しでいうと「自分で植物を育てたことがないから、花をもらっても種や芽の形が想像できない」のだ。だから、師匠はあえて表向き基礎的な訓練に終始させ、常に麓郎に話しかけるという指導を行っていた。そこには戦闘員として必要となる射撃しながらも周囲に意識を向けることを習慣化させるという技術的な狙いがまずありながら、それ以上にそういった裏の狙いに自分で気づいたり、あるいは、こうした一見単調な訓練に対して、「もっとこうしてみたい」といった自分なりに考えて動くきっかけを与えたかったのである。

 そして、今回最も肝になることが、麓郎には「自分で考えろ」と直接は伝えないという決断をしたことである。師匠は麓郎の性格を考慮してこの決断をした。麓郎は「自分で考えろ」と師匠から言われたとしても、師匠が設定したこの問いの「正解」は何だろうと考えてしまう性格だと分析したのだ。

 師匠のこの考えをたまたま耳にした同僚は、そこら辺も含めて麓郎に分かるように教えてやるのが師匠の務めだろうと反論する。これに対して師匠は、伏し目がちに「おれがいなくなったらどうすんの」と、死亡フラグ気味に返す。

 独り立ちできるようにするのが師匠の役目。なぜなら戦うときは独りだから。それが師匠の考えだった。

 賢者は、麓郎の師匠と相談した後、すべての真相を麓郎に伝える。麓郎は、師匠の期待や導きに何も気づくことのないまま、半年間の訓練を棒に振っていたことに落ち込みながらも、その上で賢者からの言葉を求めるのだった。

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 読者はひどく胸に刺さった。「自分で考える」と一言でいっても、指導する側は扱うのが具体的なスキルや知識じゃない分、その指導の難易度は跳ね上がるし、指導される側もまた、自分の考え方を考えるという堂々巡り感に苛まれる。

 まず単純に思うのは、やはり考え方を指導の対象とするなら、長い期間をみて反復的に指導してあげて欲しい。「自分で考えろ」と言っても、正解を探そうとしてしまうと思うなら、正解を探そうとするなと言ってあげて欲しい。

 ただ、師匠が重視していることもよく分かる。結局、師匠がいう「自分で考える力」とは、単なる思考力の優劣ではない。むしろ、根本的にあるのは、自己肯定感である。自分が取るべきアクションの最適は自分で考えた方が精度が高いに違いないという自己肯定感である。他者の助言をそのまま受け止めようとして消化不良気味の麓郎は、根っこのところで、「非力な自分の考えることより、実力者たちが言うことの方が正しいに違いない」と考えている。

だからこそ、師匠は麓郎に「自分で考えて納得感のあるアクションを取る」成功体験を与えて、自己肯定感を形成したかったのだろう。

麓郎のような自己肯定感の低さは、誰しも多かれ少なかれ直面する。自分よりも自分の成長について詳しい人がいるに違いないという思い込みは根深い。

その一方で、麓郎は決して完全なマニュアル人間ではないというのが余計に辛い。何から何まで周囲に言われないと動けなかったり、何も考えていない人間ではなく、麓郎なりに成長のために考えたり、悩んでいるという事実があるだけに、それが空回りしているようで辛い。

 麓郎の主観においては、成長のために師匠に弟子入りしようと決めた。だからこそ、師匠が自分にこの訓練を課しているからには、全力で取り組む。本人にとっては、考えて決めたことに全力でコミットしているつもりなのである。だが、師匠たちからすれば、それは求めている方向性ではない。熱意という量は申し分ないが、その方向性が違う。しかも、この空回りは指摘してもらえない。

物語の随所で麓郎は、現状に危機感や焦りをもって、自分はどうするべきか自問自答を重ねる。そういう点では、着実に成長しているのかもしれない。それでも、今回の一件も自分と三雲修との違いを考察する必要性を感じるまでは良いが、両者と関係のある賢者を頼るだけで、自分なりの考えがあるわけではない。考えるべき穴を見つけることはできるが、1人ではまだそれを埋められる思考の推進力は持てていない。それが麓郎の現在地である。

麓郎はこれから、他者への期待と同じくらい自分への信頼感が増してくるのか。あるいは、また違う麓郎なりの成長があるのか。どんな形であれ、このままでは終わらない期待感と、たとえ全てが上手くいなくても、読者は麓郎そのものであり、その全てに涙を飲む覚悟がある。

@hiyorimi_hina
24卒新社会人。大学で精神分析のゼミにいた余韻で、時々文字を書く