『剣風伝奇ベルセルク』の第2話を観る。スキンシップに強い抵抗を示すガッツの様子が気になる。
あまり注目されない部分だと思うが、これは幼少期のトラウマと深く結びついているのだろうし、物語全体の枠組みとも呼応し合っているように感じる。すなわち、安心できる居場所を得る事の難しさ。仲間に対して心を開く事の難しさ。自分を何処かに導いてくれる存在の渇望と、それが自分を支配し束縛してくる事への恐怖。
彼の精神構造を、例えば愛着理論の観点から分析してみる事は可能だろうか。心の拠り所が無い彼は、いかにして安心感を獲得し、かつ生きがいを見出す事ができるのか。彼の大剣をメンテしてくれていた鍛冶屋の男も、わりかし重要な言葉を発していたように思えてくる。極論すれば、両親を早くに亡くしたガッツにとって、彼は父の代わりだったと考える事も可能であるかもしれない。
愛着をキーワードにして、『ベルセルク』と『タコピーの原罪』は接点を持つ。ただしガッツにとってのグリフィスに比べて、しずかちゃんにとってのタコピーは、あまりにもカリカチュアライズ(戯画化)され過ぎている。
この事は多分、現代社会そのものの空気が、あまりにもゆるキャラ的になっている事を暗示している。多くの人が深刻な問題を抱えつつ、その深刻さを表情に出す事は憚られる。タコピーくらいの軽さを持った存在が、我々の悩み苦しみを全部解決できる、という空想の中に私達は生きている。そうした外見と本質とのギャップが、我々一人一人の相互理解を阻害する。我々は必然的に孤立する。
タコピー(≒グリフィス)に救済されず、それどころか悪夢のドン底に突き落とされたままのガッツは、どのようにして這い上がれば良いのだろうか。『エヴァ』の熱狂的なファン層が碇シンジの行く末を見届けたかったのと同様に、私は『ベルセルク』におけるガッツの行く末を見届けなければいけない。