誰の奴隷であるよりも。

うすらい
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公開:2025/1/12

何を欲し、何を拒んでいるのか判然としない。そういう気分が、ここしばらく続いている。たぶん、人と会話する頻度が増えたのも関係している。

人との会話は難しい。もともとは、誰とも喋れず誰とも価値観の共有が出来ない事に、耐え難いものを感じていたはず。そして自分と人とが繋がれば、言葉を交わす機会が生じる。言葉を交わせば心に熱が戻ってくる。「感情がほしい、感情が」。そう呟きながら、自分は人との交流を切に欲していたはずだ。

けれども言葉を沢山交わすうち、自分と人との区別がつかなくなってくる。時間を置いて、ポンと投げるくらいなら丁度いい。しかし頻繁に意見を交換し合う状況は、自分にとって危険なようだ。決して相手の責任ではない。私自身の、自我の弱さに原因がある。なら、自我の弱さは何に起因するのか。

とりあえず、場の問題であると推測してみた。最近は、ネットの中でも、大勢の人が常に行き交っている場所にいた。そういう時間が長かった。人が多いと、目や耳に入る言葉も増える。自分は肉体よりも言葉の世界に生きているので、文字から受ける影響が人並み以上に強いらしい。

それは五感を通じて流れ込んでくるものではない。ただ純粋に観念として、自分の心や思考回路を包んでしまう。例えば「ねぇ君」と呼ばれたとする。「君」という二人称は、いかにもフレンドリーな響きを持つ。「あなた」という呼称には、一定程度の社交性が含まれている印象があるし、「お前」と呼び止められれば、威圧感が共に迫ってくる。

「君」と繰り返し呼ばれたら、フレンドリーな人物としての雰囲気を滲ませるようになってくる。「あなた」と繰り返し呼ばれたら、距離を置きつつ関われるよう意識し続ける事になる。「お前」と繰り返し呼ばれたら、萎縮し続ける生活の中に閉じ込められる。どの言葉で名指されるにせよ、相当な影響力だ。

言葉がアイデンティティを四六時中歪ませてくる。そういう次元に、自分は生きてしまっているらしい。ならば、誰とどれくらいの頻度で交流するか(意識し合うか)が重要になる。踏み込みすぎず、踏み込まれすぎず……そういう関わり方が、いずれ出来れば良いのだが。

誰の奴隷であるよりも、自分は言葉そのものに服従している。言葉とは一体何者だろう。どうしてこれほど強いのだろう。

@hmm_zzz
筆名:薄氷楓(うすらいかえで)。MBTI:INFJ(提唱者)。以前、詩歌や短い小説などを書いていました。各種SNS等へのリンクはこちら。profcard.info/u/SyLhUJ6mfyM5Dyfnx9rWrmzjcPd2