※戦時中のお話をします。長いです。読んでいて辛くなるかと思いますので閲覧にはご注意下さい。今日聞いた貴重なお話を忘れたくないのでしっかり日記に書き残したいと思います。

長崎に原爆が投下されてから80年
長崎市内に注目が集まりますが
長崎周辺の小さな町にもそれぞれ凄惨な話が残っているようです
今私が住んでいる地域には戦時中の弾痕が残る建物がいくつかあります
弾痕の存在を知った時「こんな何もない穏やかな田舎町にも戦争の爪痕が?」と意外に思いました
意外どころか超標的にされていた事実を今日初めて知り今びっくりしている所です
戦後80年として近くの公民館で「町の歴史講話と朗読」という集会が行われました
弾痕が残る建物を見て自分の住む町の歴史が気になっていたので夫と一緒におそるおそる参加してみる事にしました
会場には30人位の町内の人が集まっていて、到着するなり「来てくれてありがとう」「ありがとう」と口々にお礼を言われました
興味を持って参加する人が少ないらしく、参加者はほぼほぼ集会の関係者のようでした
歴史講話がはじまると戦時中の話をするにあたって話が江戸時代まで遡り
今住んでいるこの町が農業や漁業、海上交通などで栄えてきたことがわかりました
町の周りに広がる大村湾の波が静かで広く、武器を作るには都合のよい場所であった為、戦争に備えて海岸では魚雷の試し撃ちが行われ軍事施設が立ち並ぶようになったそうです
当時米軍が撮った航空地図を見せて貰うと今私が住んでいる場所も軍事施設だらけだった事がわかりました
近くには人間魚雷といわれる特攻艇の訓練施設もありました
長崎の他、宮崎や鹿児島など遠方から13歳にも満たない学徒動員がこの町に集められ
子ども達は自分が何を作っているかもわからないまま軍事施設で魚雷を作る手伝いをさせられたそうです
指を切断するような危険な作業もあったとか
毎日の食事は大豆ご飯やきゅうり一切れの入った味噌汁など粗末なもの
通勤時には必ず軍歌を歌って行進させられ
規律を違反した者は縄で縛り上げられ貼り紙をつけられトラックで引きずり回されるなど
今では考えられないような事がこの町で日常的に行われていたそうです
そんな歴史を聞いただけでも唖然としていたのですが
更にこの町で戦争を体験した方の話を聞いてゾッとしました
それはとある看護師の女性の実体験
戦争中この町は軍事施設が多く建てられた事で栄え、都市化計画的なものもあったようで娯楽施設も増えました
それでも贅沢は出来ず、その看護師さんの働いていた病院では使用済みの包帯を消毒して何度も再利用していたそうです
男性が御国の為命をかけて戦っている姿を見て自分も人の役に立ちたいと思った事が看護師になったきっかけだったとか
毎日焼夷弾に怯えながら暮らしていたある日
ドーンと大きな音がしたかと思うと辺り一面が吹き飛びました
近くに来ていたサーカスのテントにミサイルが直撃
当時沢山建てられていた馬小屋も吹き飛び
周りが人や馬の死体だらけになったそうです
「痛い痛い」と泣き叫ぶ人や手足がちぎれた人
いつも私が眺めている川もその時真っ赤な血で染まったと聞き思わず顔をしかめました
看護師の女性の働く病院には次々と患者が運び込まれ、それから毎日対応に追われたそうです
そんな時に更に、遠くから強烈な閃光が放たれるのを彼女は見ました
長崎市に原爆が投下されたのです
そこからが地獄でした
長崎市内から沢山の被爆者が汽車でこの町に運び込まれては布の上にゴロゴロとが転がされていたらしく
町が被爆者であふれかえっていたそうです
みんな皮膚が真っ黒に爛れ
髪の毛は逆立ち
服はちぎれた布が被されていれば良い方で
みんなほぼほぼ裸の状態
「水、水を下さい」と言いながら沢山の方が亡くなっていったそうです
そんな中でも看護師の女性は人を助けようと必死に動きました
被爆者の中には朝鮮人の方もいたようで微かな声で故郷の歌を歌っていたそうです
その人を生かしたいと強心剤の注射を打とうとするも皮膚が真っ黒でつるつるとしていて注射を刺せる場所がなく、少しだけ白く残っていた太ももに注射を打ってその方は一命を取り留めたとか
他にも木片やガラス片が体中に刺さった人から破片をひとつずつピンセットで取る作業をしたり、「大丈夫ですよ、大丈夫」と声をかけて元気づけたり
その後も次々と市内から被爆者が運び込まれました
対応が追いつかず夏の暑さもありどんどん人が腐っていき悪臭が漂うようになりました
決められた場所で火葬しなければなりませんでしたがやむなく近くの学校の体育館裏で死体を燃やしていたそうです
その後も壮絶な日々を過ごし終戦を迎え
「日本が負けた」とラジオで聞いた時にはポカンとしてしまったそうです
「あんなに頑張ったのに」と
これらが全て今私が住んでいるこの地で起こった出来事であるという事がとても信じられません
今まで知らずに過ごしてきた事が急激に恥ずかしくなりました
歴史講話の集会を開くのは初めての試みだったそうですが、今回参加出来て本当に良かったと思います
昼間に配信で見た平和祈念式典での長崎市長の叫びがずっと耳に響いています
「ノー・モア・ヒロシマ」
「ノー・モア・ナガサキ」
「ノー・モア・ウォー」
「ノー・モア・ヒバクシャ」
式典最中の物凄いセミの声やデモか何かの男の人達の怒鳴り声に負けない力強い声でした
こんな惨劇は二度と繰り返してはいけません
今日知った事を自分の中に留める事はせず沢山の方に伝えていけたらと思います
思い出したくもない出来事を話してくれる語り部の方達の思いが報われますように
長い話をここまで読んで下さりありがとうございます
今日聞いた講話の内容を一生懸命思い出しながら書き出しましたが話をまとめるのが下手で読み辛い部分が多いかもしれません
もっと悲惨なお話もされましたがここに書いた内容が私の今のメンタルの限界です
どうかみんなが安心して暮らせる社会になりますように
POPPO