銀行のATMでお金を引き出した。その時は気付かなかったが、後で確認したところ、諭吉に挟まれて栄一がいた。そういえば、ATM機に新紙幣と旧紙幣が混在して出てくることがありますと書いてあったことを思い出した。諭吉と栄一を並べてみると、初めて手にした時も感じたことだが、やはり栄一の方が諭吉よりも肖像画が大きく、前面に張り出した感じがする。
前回の『光る君へ』のまひろ(紫式部)と道長の関係と今後に対して、SNSでは是非が真っ二つに分かれている。是非というよりも、そう来たかと戸惑いながらも受け入れるか、あまりの超展開に全く許せないかで割れているように感じる。最近X(Twitter)で今年の大河ドラマが許しがたいという人の複数に渡る長文ポストがあったらしい。私が知った時には既に削除か鍵アカウントになっていたようで、当該ポストを幸い目にすることは無かった。大河ドラマで史実を超えたフィクションが描かれることをどうしても許せないと言う人は毎年必ずいるので特に珍しくも無い。ただ、それがドラマへの批判から憎悪となり、視聴者や関係者を誹謗中傷する場合は別問題だ。そういう投稿であれば決して容認してはいけない。
それはさておき、まひろと道長の関係についての私自身の感想は、これまでにもその可能性を回を重ねるごとに薄々感じつつも、そうならない事を祈るような気持ちでいた。しかし、宣孝がまひろと結婚した時に言った不実な者同士という発言からこれはもう覚悟を決めるしかないのかもしれないと思った。なので、今回の逢瀬に伴う結末にもやもやしながらも、やはりこうなったかと半ば諦めるような気持ちだった。ただ、これは決して『光る君へ』そのものを否定するものではなく、自分がそこはこうであって欲しいという展開では無かったというだけのことだ。例えば、中宮定子とききょう(清少納言)については、私がまさにこうあって欲しいと思う姿が映像化されているので、彼女たちの登場する場面では、目を輝かせて心の中でうちわやペンライトを振っている。
『光る君へ』は、明らかな史実以外は『源氏物語』からヒントやモチーフを得ている部分も多い。それも『源氏物語』からそのまま『光る君へ』に移し替えるのではなく、立場や身分が明らかに違う人物のエピソードとして語られる。そのためか、『光る君へ』でまひろを始めとした登場人物が見聞きし経験したことが、あたかも『源氏物語』の創作のヒントになってゆくような逆転した錯覚を覚えることがある。いとおもしろし。