今日は朝から電車が架線トラブルにより止まってしまい、ちょうど出勤時と重なり大変だった。駅の放送で運転再開見込みが9時を過ぎると聞き、職場に遅れる旨の連絡をした。このままこの駅で運転再開を待とうと思ったが、電車内もホームも椅子に空きが無い。このままずっと立って待つより歩いた方がマシかもしれないと思い、結局その駅から職場まで歩いて行った。この出勤ウォーキングにより、万歩計アプリのカウントが、この時歩いた分だけで1日の目標歩数を達成した。職場に到着した頃、ようやく電車は運転を再開したようだった。
ひたすら歩いていると様々なことを考える。と言っても、特に哲学的な思索ではなく、例えば今朝は天気が良かったので、日差しを浴びながら、これでどれくらいビタミンDが体内で生成されるのだろうか、そろそろ紫外線対策しなくては、そうそう晴雨兼用の傘が昨年秋に壊れたから新しい傘を買わないと、というような他愛ないことばかりである。もう少し若い時であれば、自分の将来や生き方、人間関係などについてもっとぐるぐる悶々としていたように思う。いつの間にか、そういうことに考えを巡らせることが、無くなった訳じゃないけれど少なくなった。
年齢による考え方の変化と言えば、太宰治の『人間失格』の主人公に対する捉え方は読んだ時の年齢によって随分異なると、昨日Blueskyに簡単には書いたのだけど、こちらではもう少し詳しく書く。10代で読んだ時は、主人公が最初から最後まで必死で道化を演じる姿に何故か恐怖感を覚えた。20代で読んだ時は、結局自分のことだけしか考えていない、都合が悪くなるとおどけてごまかそうとする甘ったれの主人公を情けなく思った。30代で読んだ時は、手記の前後に登場する「私」の視点のように、主人公を第三者的目線で見つめていた。そういえば、太宰治が没した年齢を超えてからは、たぶん『人間失格』を通して読んでいない。何となく今の私がこの作品を読んだとしても、心に刺さることはあまり無いような気がする。どんな作品にも、年齢や人生経験によって読んだ時の捉え方が違うだけではなく、より深く味わうことのできる賞味期限みたいなものがあるのだろうと思う。