歌会が終わって、帰る電車の中でこれは書いている。
一言でいうと、すごく楽しかった!!っていう話になる。やっぱり、違うコミュニティにいる人と交流することはかなり大きな刺激になるね。選が入る歌会って結構久しぶりだったんだけど、結果としてはわりとよかったかな、14首のうち6番目、14人で3票入ったという感じ。これは、14人のうち3人のトップ3に入れたということで、わりと光栄だし、なにより、ひとりにかなりアツい評をもらえたという感覚がある。わたしのつくる短歌はかなり感覚に依っている部分があって、そこがきれいにはまったのかな、そういうのがあるとやっぱり作ってきた甲斐があったなあと思う。あとはシンプルに、同じものが好きな人たちと、あとは美味しいご飯とお酒があるだけでこんなに楽しいんだということにようやく気づけたかなあ。かなり時間がかかってしまったけれど。
やっぱり、なにか企画を進めるときに呼んでもらえるような、そういう向きの実力をつけたいと思った。ひとつ抜けた特徴とか、もっと読みたいっていう魅力みたいなのが、あんまりないんだろうなあ。そこを、なにかにおもねることなく、完成させたい。
なんで?
髙良真実の月のコラム「短歌の神様はどこにいるのか」がかなりよかった。短歌における共同体の存在価値は、誰かが自分の歌を読んで覚えていてくれるという信頼を担保する、賞を取れるか取れないかの世界から適切にドロップアウトする手段としてあるという。共同体の人々が「適切に」「ドロップアウト」できているとは思わないけれど、言いたいことはまあわかる。誰も認めてくれないなら自分たちで認め合うしかないというか、そういうふうにいうと傷の舐め合いのように感じるかもしれないけれど、それはそうではなく、世界に認めてもらうには自分が認めることから始める必要があるけれど、たぶんそこにはひとつの限界があって、その解消の方策として、近い他者に認めてもらう、世界に近い自分、あるいは自分に近い世界の手助けが必要になるのだと、わたしはそう考えている。
いつか、自分で自分を認められなくなったら
ちがう
いつか、自分で自分を認められなくなる
その限界が見えているから、わたし(たち)は共同体を求めるのではないか?
わたしは現状にわりと満足しているつもりだ。今の、大きく緩い共同体の中で楽しく生きてゆけているけれど。わたしが、もっと世界に近いわたしに、もっと認められるようになったら。
わたしのつくる短歌はかなり感覚に依っている部分があって、
わたしは、この、一定でない「感覚」の出力を、うつくしく制御できるだろうか?そのとき、世界に近いわたしに、わたしはこんどこそ見放されてしまうのではないか?
わたしはほんとうに認められたいのか?
正解はないんだよ いいこいいこ 生きてね はい 死のうとすると怖いですから/鴇巣