戦う

honozu
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ねむらない樹vol.11を買ったよ~~なぜなら~~~~

わたしの短歌が載ってるからだよ~~~~やった~~~~!!!!

笹井宏之賞という、短歌の新人賞の最終候補作に選ばれまして。賞は取れなかったので10首しか載ってないんですけど、短歌雑誌に候補作として短歌が載るという経験がシンプルにうれしいなあと思っています。普通に最終候補になるの難しいし。実は冬ごろには結果がメールで流れてきてて、内緒だよって書いてあったので、短歌会で推敲に協力してもらった人にしか言ってなかったんですが、ようやくあちこちに言えるといううれしさもある。よかったよかった。別にここのみなさんは短歌にもわたしにも興味ないでしょうからわざわざ買ってくれとは言いませんが(わたしに原稿料が入るわけでもないし)、読ませろといわれればまあという感じではあります。そもそもTwitterサークルが生きていた時代に一瞬投下したりもしてたし。

とりあえず報告はここまで。ここからはもうちょい詳しく色々書くから、もうお腹いっぱいってひとはおてて合わせてもらって。

笹井賞は、全投稿作を選者が一度読むという鬼のような一次選考をとっていて、そこから、上位5%くらい、30作品ほどが選ばれるんです。これらが最終候補作、わたしはこの中に選ばれてるわけです。そして、そこから各選者が4作品に票をいれて、票の入った作品が選考会に挙げられて、そこから賞が決まるんですが、わたしの作品は票は入らずだったというところです。

実は新人賞の最終候補になるのは初めてのことではなく、去年、現代短歌社賞という新人賞の最終候補にはなってたんですが、笹井賞は50首、現代短歌社賞は300首で一作品なので、現代短歌社賞は新人賞としては異質、笹井賞は王道、しかもオンラインで応募ができて投稿数も多く、投稿者も選者も若いということもあって、個人的には笹井の最終候補の方がうれしかった。

ただね……現代短歌社賞のときも経験したんですけど、最終候補になったけど票が入らないというのはわたしは結構つらく感じてしまう。選考会の文字起こしを読んでると、こんなに深く読んでくれている人たちの前に、わたしの作品の力は及ばなかったんだなと、より強く示されているような、そんな気持ちになる。

今回のわたしの連作は、短歌の世界であまり見られない形をとっていました。テーマとして、「インターネットという、あまりに大きな共同体もどきのもつ、連帯性と非連帯性」というものがあって、それを描くためには主人公が1人では足りないだろうと考え、50首を10首ずつに分け、それぞれに主人公を立てる、5人の視点を持って連作を構成することにしました。これは、「私性(=短歌の先にただ一人の人間が浮かび上がってくること)」を重視する短歌の世界では珍しいことなんじゃないかな、少なくとも一つの連作での試みとしては、(わたしはあんまり詳しくないけど)わたしはほかに見たことはないです。そういう意味では、今の短歌の世界に大きい石を投げれたんじゃないかなあと思っていて。ただ、石にそこまでの大きさがなかったのか、わたしに投げる力が足りなかったのか(たぶん後者)、票は入らなかった。

まあ、M-1とかでもそうだけど、飛び道具的なことをしたいなら、一度手の内を見せてしまうとそのあとはどうしても苦しくなるわけで。今回、こういう形をとったのは、もちろん「私性」に切り込むという意図はあったのだけど、やっぱり、インターネットという場で長く短歌を作ってきた人間が、インターネットをテーマで短歌を詠むときに、「私」を隠して詠んできた自分が強みになるんじゃないかと思ったわけです。

だから、詠みたいものが変われば、この形は使わないし、わたしはこれから、足りないと言われた腕の力でやっぱり戦っていかないといけない。だから今回の結果は、もちろんうれしかったけども、あまり浮き足立ってもいられない。これからはもっと苦しくなるという覚悟をもって、また作るしかない。

とはいえ、収穫はあった。投稿した50首から、選者が良いと思った10首だけが雑誌には掲載されるわけだけど、自分もいいと思っていたうた、こういうの好きでしょと思って入れていたうた、読んでもらったときにいいと言ってもらえたうたがちゃんと選ばれていた。自分の目は確実に良くなっているし、良い目を持った仲間もいる。というか、同じ短歌会の同期が一緒に最終候補になってたし、票も入ってたね。悔しいけど、その子の短歌が良いことと、わたしの短歌の良さとは関係がないことだし、悔しがっててもしょうがない。やりましょう、次こそ。

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす/笹井宏之