『源氏物語』「空蝉」を読む。
与謝野説を採ればの話だが、「帚木」「空蝉」をまず書いて、それが評判が良かったので続きを書き継いでいった、というのも頷けるような気がした。
「空蝉」の帖についていえば、「物語」としての定型のようなものをちゃんと踏まえている点に驚かされる。
一例を挙げると、狂言回し的な小君くんを案内役に置いて、空蝉を探すという「シーク・アンド・ファインド」の物語になっている。屋敷に侵入する作戦(?)も凝ってるし、抜け出す場面では、老女房を登場させたりして、当時の読み手もドキドキハラハラしながら読んだのではないかしらん、などと想像してしまう。
しかも結果的には、空蝉と軒端荻とを間違っちゃうわけで、光君の天然ボケっぽい性格も、ひどいというよりも可愛らしく思われたのでは。こりゃあ、続きが気になるよなあ。読んでみたくなるよなあ(笑)