ふぉろわ全員と友達になりたいとよく考えている。いつもではないけど、決して少ないとは言えない数だけそう思っている。「友達が欲しい」と辛くなる度に思ってしまうし、実際に口からも出てしまう。死んだ顔で繰り返し「友達が欲しい」というような不審人物なのだ、私は。私自身、私の友達は多いとは思っている。でもそういうことではないのだ。きっと痛み止めが欲しいのだと思う。この痛み止めの言葉は友達以外だと「ママ」や「お兄ちゃん」などがある。いい年した大人が無心で呟く言葉ではない。本当に無心で何度も何度も繰り返し口にしてしまう。私にとってきっと祈りの言葉に近いのだと思う。もっとかっこいい言葉を口にしたいものだ、と冷静な今は思う。それだというのに今日もふと「友達が欲しい」と口にしてしまった。悪い癖になっているのだろう。今の友達に不満があるわけではないのにね。
私にとって書くことも祈りに近いのだと思う。日記は懺悔に近いし、公開することはボトルレターを流すことに近い。もしくは許しを乞う行為に。常に許しを乞うている。誰にだろう。自分にだろうか。きっとそう。自分自身から許されたいと常に思っている。毎日繰り返し繰り返し祈っている。拙くても意味はある。
友達のことを救いだとも思っている。友達本人を救いだと思っているというより、友達という概念を救いだと思っている。他のものだと優しさや誠実さや知識など。いずれ私を救ってくれると思っている。まだ言語化できていないが、これだけが私の寄る辺であり、私の唯一武器になり得るものだという感覚がある。感覚がするだけで全く根拠はないのだが。いくつかの救いといくつかの祈りが普段から私を支えてくれているのだと思う。
今もこうして日記を書いていると、心が凪いでいくような感覚がする。心の浅いところをチャプチャプと遊んでいるような感覚だ。思考の青い海の浅瀬で浮いたり沈んだりしているような、そんな感覚。思考の海に浮いている間は苦しみがないような気持ちになる。書くことや考えることは確かに痛み止めになっている。友達といない間にも苦しみがなくなる瞬間はこうして確かにある。
いつかこの祈りが届いて報われる瞬間が、救われる瞬間が来るのだろうかと考える。毎日の様々な祈りが形になる時が来るのかと。ないとも言えるだろうし、あるとも言えるだろう。まだ私は多くを感じるままにしていて、何も言語化できていないのだから。全ては私の捉え方次第、というわけなのだ。人生の話かな?そうかも。