よく感じよく考える

hoof4yagi13
·

エッセイや人の日記を読むといつも「私も何か書きたいな、考えたいな」と思う。思うだけだけど。いつも私が考えてることは浅いなと思ってしまう。ついでに何も感じられていないなとも思う。私の経験してきたものや真剣に考えてきたことは他の人よりはるかに少ない。周りが一生懸命生きている間、病床に伏せっているか、泣いているだけかの人生を生きてきた。かれこれ11年くらいずっとそんな感じだ。11年ずっとは言いすぎかも。ここ4年程はちょっとだけ活動時間が増えて交友関係が広がっているのだから。周りがやれ勉強だ、やれ友達と遠出だ、やれ就職活動だとしている間、私はというとずっと寝ていた気がする。当時何をしていたかを全く思い出せない。調子が悪い時期は日記も書いていなかったので真相は闇の中だ。

よく感じよく考えたいとは思うが、はたしてそれでいいのだろうかとも考える。どうも私は繊細で考えすぎてしまう性質らしい。どんな診断を受けてもそんな結果が返ってくる。メンタル面でも過敏だし、フィジカル面でも過敏だ。肌に触れる布の質感が気になって集中できないこともあるし、食べ物の触感が嫌で食べられないときもある。そんな人間がこれ以上よく感じてしまったらキャパオーバーになってしまうのではないか。

それならなぜ私は「感じるものが少ない」と思ってしまうのだろうか。多分感じてはいるのだろう。さっきまで話していたことをひっくり返すようだけど。ではなぜ感じているのに考えられていないと思うのか。アウトプットが少ないのかもしれない。日記として文章を公開するだけでなく、意思表示することも少ないからだろう。書いてみてようやく気が付く。自分を表に出して書いていないから、考えていないと思う。考えていないと感じるから、何も感じていないと思ってしまう。この流れが起きているのではないか。ははぁ、私は何も感じていない訳ではないのだなと今はっきりわかった。現にこうして書こうと思えば考えていることが文章にできた。ない訳では決してないのだな。私の考えていることも、私の感じたことも、私という存在も。思い返してみれば、伏せっていた11年間もこんな感じのことを延々と布団の中で考えていたような気もする。答えのないことを、意味がすぐに確認できないようなことを。

エッセイ本を出しているような人たちは、どうしてあんなに面白いことを考えられるんだろうか。普段の会話から面白いのだろうか。日ごろからよくよく考えているのだろうか。知識量がすごいのだろうか。人生の経験値が私とは格段に違うのだろうか。詳しく知るすべがないので材料がないまま考える。きっとたくさん傷ついてきたんだろうなと思う。深い考えとは傷ついたところからあふれる血液みたいなものだから。同時に嬉しいという気持ちや楽しいという気持ちを適当にしていたのではなく、よくよく味わってきたのだろうとも思う。感情を味わうことがエッセイの面白さの秘訣だろうか? そうなのかも。やっぱりもっとよく感じて、よく考えていきたいなと思ってしまった。堂々巡りだ。

常に「面白いものを書きたいな、深く考えていきたいな」と思っている。それはこの瞬間だってそうだし、きっと書き終わったあとでも同じだ。もっと本を読んだ方がいいのかもしれないし、もっと人と触れ合った方がいいのかもしれない。大方どちらも間違いではないだろう。キーボードを叩いている瞬間だけ考えられている気がする。もしくはペンを握っている間だけ。私が思う「考える」の定義が狭いだけなのかもしれないけど。

今気が付いたけどこの話前にもしたね。きっと私の人生において大事なことなんだよ、きっと、きっとね。

@hoof4yagi13
考えているようで考えていない。