チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』感想

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公開:2024/11/4

ぼくのちっぽけな人生。ぼくのちっぽけなクソ仕事。ぼくのスウェーデン製家具。こんなことは絶対に、決して、一度だって他人に話したことはないが、タイラーに出会う前、ぼくは犬を買って〝従者〟と名付けるつもりでいた。人生はそれくらい痛いものになりかねない。


初めてタイラーに会ったとき、ぼくは眠っていた。ぼくは疲れて頭がどうかしそうで追い詰められていて、飛行機に乗るたびにどうか墜ちてくれと願った。ガンで死にかけている人々をうらやましいと思った。自分の人生を憎悪していた。疲れて、仕事や家具にうんざりして、それでも状況を変える方法がわからずにいた。いっそすべて終わらせてしまう以外の方法がわからなかった。出口がないと感じていた。ぼくは完全すぎた。ぼくは完璧すぎた。ぼくは自分のちっぽけな人生に脱出口を探していた。使い切りバターと窮屈な飛行機の座席の役割からなんとしても脱出したかった。スウェーデン製の家具。趣味のいいアート。

たぶんこれがファイト・クラブという場所が生まれた動機というかきっかけなんだろう。そのまま自分に投影しても良さそうな、というか現代の多くの人が共感するようなある意味で普遍的な苦悩だと思う。この「完璧すぎた」という部分がいろんな方向からグサグサ刺さる。

この起点から「ファイト・クラブという共同体の構築」までの、箍が一気に外れる感じといったらいいのか、「いきなりすぎん?」となる、フィクションでしかできないぶっとんだ飛躍がめちゃくちゃ爽快。一般人の脳みその奥に眠っている、普段は理性に守られてしまわれている暴力性をファイト・クラブという場所が媒介して呼び起こし、強烈な生への実感として追体験させてくれる。

主人公の行動のきっかけの部分が決して遠いところにある出来事というわけではなく現実と地続きだと思うので、没入感が半端ない。読者にとって代弁的、救済的な小説だとも思える。

読んでいてブロマンス、バイオレンス・・・のようなイメージの単語も思い浮かんだけれど、もっとそこを突き詰めた小説はあるだろうし、『ファイト・クラブ』がその頂点かというとそうではない気もする。それよりも自分は、先述したとおり(きっかけの葛藤の部分が)現実と地続きである読み味の方にやられてしまった。読む前に想像していた内容とは良い意味で違っていて、まさかパラニュークさんにこういう話をお出しされると思っていなかった。ただ、アンダーグラウンドな描写の生々しさは凄まじく、それに拍車をかけていたと感じられたのは嗅覚に訴えかける多くの表現だったかもしれないなと思う。

タイラーがすぐそこに立っている。完璧なまでに美しく、すべてが淡い金色をした天使のごとく。生きたいという自分の意志に、我ながら驚かされる。ぼくは、対照的にぼくは、ペーパー・ストリート石鹸会社のぼくの寝室に置いたむき出しのマットレスに横たわる、血まみれで干からびた組織サンプルだ。

↑にも言及がある通り、主人公は自分と真逆の存在(神格化するほど絶対的なもの)としてタイラーを生み出しているけれど、その存在と最後に決別するという選択をとったことが個人的にはとても良かった。お互いが「好き」(「愛」ではない)だと伝えあったうえで新たに始まるマーラとの関係性も感動的。

ぼくらは特別の存在じゃない。かといってくずでもごみでもない。ぼくらはぼくらだ。人は人にすぎず、出来事は出来事にすぎない。

主人公のこの思いのあとに、タイラーの残滓が少し表現されて物語は幕を閉じるわけだけれど、ここは主人公とタイラーのどちらに感情移入するかで結構読み味が変わってきそう。後者だと捉えて、タイラーを神格化したままの読者が著者あとがきにあるような行動をとったのかもしれないなと思うなどした。まあここはそう単純化できるものではない気もするが。主人公とタイラーの存在についてはもっと考察すべき部分もあるだろうし、映画も観てみたい。


その他めちゃくちゃ好きだと思った表現(一部抜粋)

ファイトが終わったとき、何一つ解決してはいなかったが、何一つ気にならなくなっていた。

何かをした結果、収拾のつかない事態に陥ることがある。何もしなかった結果、収拾のつかない事態に陥ることもある。

昔、十分間だけガンを患ったこと、ガンよりも悪性の病気を患ったことを思い出す。

不変のものはない。万物が崩壊に向かっている。

あんたには失うものが多すぎる。おれには何もない。あんたはすべてを持っている。

星空を見上げれば、きみという存在は消え失せる。

@hotwater
本と生活感のない話の続き