「意識とはなにか」というハードプロブレムを哲学者と科学者の立場から対談形式で迫っていく。かなり平易に噛み砕いて解説してくれていて、合間に意識にまつわる思考実験なんかも挟まれるので、自分みたいな一般読者にもとてもやさしく面白い良書。(「意識」は主観的な体験であるため物理的な現象として捉えることが難しく、解明しづらい。こういう諸問題をハードプロブレムというらしい。)
マインドアップローディングできる世界がもう目の前まで来ているかもしれないのは驚く。ただ、超侵襲性の技術であることと自己同一性などの問題から抵抗ある人が多いというのもなんとなく理解できる。最後まで信原先生がやりたくないと言ってたのは笑った。この技術が単なるSF的な世界観の延長としての研究ではなく、アップロード後の人間の在り方(避死、ウェルビーイング)にまで議論を広げていく、あくまで現実的な姿勢は流石だなと思った。
自分は、非侵襲性かつ可逆的(アップロード後も元に戻せる)マインドアップローディングであればやってみたい。渡辺先生の考案する技術ももちろんすごいと思うが、さすがに侵襲性が高すぎるのでちょっと…とはなっている。ただ、脳という生体をデジタル化していくわけなので、どうあがいても侵襲性の高いやり方にならざるを得ないというのは仕方がない。自分もブレインテック技術が常識レベルで受容された世界にまでなれば考えを改めるかもしれない。なので、今は意識という現象を解明するために利用されているもの、というちょっと引いた目で見るしかない。
あとやっぱり意識の話は「自己同一性」が面白いよね。テセウスの船とかを例にあげると、普通に生きている人間自体も原子レベルではある瞬間とある瞬間に完全に同一ではないことになるので、じゃあ自分ではないのか?いや自分だろう…みたいなことを考えだす。それがデジタル世界にアップロードされた存在のことを議論するのであればなおさら複雑化するのは自明。時空連続的で記憶を引き継いでいればそれは自分なのか?そもそも記憶を完全に移行することは可能なのか?脳の奥底に眠っている記憶は引き継げるのか?などなど。これらを勘案しつつ、何をもって自分とするのかという思考の沼にハマっていく。素人からしても奥深さが凄まじい。
これはすごく失礼かもしれないが、本書だけを読むと自身の主張に対する(こだわりという意味での)スタンスは科学者の方が楽観的だった。例えば自分の主張を覆すだけのエビデンスが得られたら、その主張をすぐに転換できるという柔軟な姿勢だ。これはある意味で何らかの検証結果に依拠して行動や立場を決めるという、すごく科学者的な考え方だよなと思う。一方の哲学は、思索を際限なく広げていける(広げていかなければならない)し検証を伴わない(と思う)ので、結果というものが明確でない分、おいそれと自分の立場を崩しにくいところがあるんだろうなと感じた。渡辺先生が「言葉遊びでは?」と懐疑的に信原先生に反論?しているところはぶっ込んでて面白かった。
しかし、どうしてそのような、物質世界に何の因果的な影響も及ぼさないものが存在しているのか。そんなものが存在すること自体が奇妙なのではないかと、私のような哲学者は考えてしまいます。これは美学的な観点と言ってもいいかもしれません。
意識に機能はあるのか?という議論で言及された↑はむしろ科学者側の視点だと思っていたけれど、確かにかなり深遠な話になってくるので、思索を広げていける哲学者ならではの観点なのかもしれない。SFとかも哲学者側の視点に立ってテーマを立てているものが多いような。
「意識は脳の仕組みの中で湧いてくるものであって、意識そのものには機能がない」という渡辺先生の考え方は、一般人からしてもなんとなく理解しやすかった。科学者の考え方の出発点が一般人の理解の外ではないという事実はなんとなくうれしい。これに対して信原先生が「物質と意識を別物とみなす二元論であって、「随伴現象説」に近い」と分析していて、既存の学説を組み合わせて明確に言語化できるのは流石すぎた。また、説明できるだけの学説がすでに用意されているという哲学の思索の広さにも舌を巻く。
なので、哲学者と科学者それぞれの考え方がかなり直感的に体験できる書籍なのではないかと思った。思考の割き方に違いがあるというか。互いの立場は尊重するというのは前提で、ときには牽制しつつ忖度はしないプライドバトル!のような趣もあり、読みものとしても面白かった。