美味しいご飯を食べることって、本当に幸せなのかどうかを急に考えてみたくなった。
美味しいご飯を食べることは、一瞬の幸せなのかもしれない。
そう思うのは、一定数美味しいご飯に興味がない人がいるからだ。男性に多い気がしている。
持続的な幸せ、すなわちウェルビーイングには、セロトニン→オキシトシン→ドーパミンの順に幸福感を追求するのが重要であるといわれている。
そのことに当てはめてみると、ご飯を食べることはドーパミンなのだろうか。
美味しいは、もっと食べたい、もっと食べたいに繋がるか、もういいやに繋がるか。それは食べるものにもよるだろうし、その人の空腹状態にもよるだろう。きっと、環境によって変化する。
実際に、有名な串カツ屋に、はじめましての人と訪れた際には、美味しいのは美味しいし、特別感があって自慢したくなって、初めての人とも出会えて、とても充実感を得て帰宅した。しかし2回目に行ったときは、もうすでに経験している味を食べるのだから感動はない。そこにあった出会いが1番印象に残っている。
慣れというものは悲しいもので、どれだけ価値のあるといわれているものでも実際に経験してしまうと現実味を帯びて雲の上の存在ではなくなる。目指していたものが手に入ったからなのか、そこに固執する必要がなくなるのだ。
経験してしまった味は、美味しかったからまた機会があれば是非食べたいとは思うが、喉から手が出るほどに食べたいとは思わないのである。
実際に、あれは美味しかったなあと思って幸せに浸ることは、あまりない。
となると、ドーパミン的要素が強いのかと思う。
食事は、食べることは、生きること、という意味ではセロトニン的幸福なのかもしれない。
誰かと食べることは、オキシトシン的幸福なのかもしれない。
そうなると、一人で美味しいお店を開拓するというよりかは、1番いいのは、五感で心地よいと感じられる景観のなか、「食べる」という行為の大切さを身にしみて感じられる環境下で、大切な人々との対話を楽しみながら食事をすること。
そんなことができる場所があればいいと思うし、そんな経験をしてみたいと思う。