ただ毎日生きていくために、体や頭を動かすエネルギーを摂取するための活動に、いちいち「おいしい」と感情を抱かなければならないことに、そしてそれを言葉にして芦川さんに示さなければならないことに、やはり疲れる。
これこれこれこれ!!!と読んだ時は思った一節なのだけど、改めて読み返すとそうでもない。でもやっぱり、うっすらわかるなあと思う。
高瀬隼子の『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。
語り手の一人である二谷の食事への考えに頷きながら読んだ。冒頭に引用したのは二谷のモノローグ。ああいう考えなのである。
読書メーターで人の感想を読んでいると、二谷は食に拘りがない、興味がないと書かれているのをちらほら見つける。が、違う。二谷の食への拘りは作中の誰よりも強いのだ。私も食への拘りなしを自認していたけど、お前は食への拘り強いよと人から指摘されて驚いたことがある。だからこういう社会通念と逆方向に食に拘ってるのを拘りとして検知できるようになったのです。
二谷の拘りが強くあらわれていると思うのが、恋人の芦川が作った食事を食べたあと、芦川が寝たのを確認してからカップラーメンを食べるシーン。芦川が目を覚まさないようにゆっくりカップのフィルムを剥がして、暗い台所で静かに麺を啜る。食に拘りがなかったらこんなことはしない。だって「体や頭を動かすエネルギーを摂取するための活動」は芦川の手料理を食べて完遂しているのだから。
二谷にとって食事はエネルギーの補給であるとともに、「食事はエネルギーの補給にしかすぎないと体現すること」でもあるのだろう。芦川の温かい手料理を食べることでは食事に感じている億劫さ、くだらなさ、価値のなさを体現できないから食べても心が満たされないのだ。
私はというと手料理のあとのカップラーメンのくだりを読みながら、入社3年目くらいまでのことを思い出して二谷をダシに自分の記憶を味わっていました。そのとき実家に住んでいたのだけど、残業のあとに「母親の作った料理を食べる」という行為の情報量に耐えられないためコンビニのそばを自室を暗くして椅子の座面に乗せて食べてました。
贅沢千万な話ではあるがおかずとかあって食べるの疲れるし……。それに当時の私としては日々の労働を乗り切るためには自分が家族の手料理を食べる生活に値する存在では困ってしまうのだ。手料理を放棄してしょうもないメシを食べる存在へと己を貶めないと、なんも悪くないのに苦しむのって尚更堪えがたいではないか。というわけで暗闇でそばを食べないとやってられなかったのである。新入社員ってそれだけでデバフかかってるんだから無用な苦しみを受けずに生きて欲しいね。
ちなみに現在の私の食への拘りは、「いいもの、高いもの、外食は食べたい時にしか食べたくない」という感じです。なんか当たり前のことを言ってるだけの気もしてきた。お腹が空かなければ食べなくていいのに……と思うときもあれば、これ食べたい!なときもあり我儘で、同居人にすみません。
こんなことを書いておいてですが友達とご飯食べるのは楽しいので食事に行かせてください。食べに行くと食べたくなりますマジで!食事って親愛のメディウムだよね。