誰かにだけ優しくありたい

うるる
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人間とは完璧な生き物ではないのだ。そして完璧になろうとしなくてもいい。でもそれに気づくことができるのはすごく難しい。

例えば電車の中で高齢者や子連れの親子に席を譲る行為は優しい行為ではある。しかし自分が疲れているときや、譲る精神的余裕がないときは譲らなくてもいい。更には相手が別に困ってなさそうなとき、相手の態度が気に食わないときなど自分の都合で優しくなくてもいい。それはあなたが悪いわけじゃなく、ホントに譲ってほしいなら空気を読まずに頼んだらいいだけであって、座ってる自分がわざわざ空気を読んでまで優しくする義理はない。

世の中も優しくする人につけこむような犯罪も増えてきているらしい。例えば道端でうずくまっている人を助けようとすると、隙を見てひったくりをするような犯罪とか。

外国人も増えて、日本では当たり前と思っている行為が外国人にとってはそうではないし、ありえないと思っている行為でも外国人には別にどうとも思ってないという事例もたくさんある。例えば災害時に偽の情報を撒き散らすインプレゾンビのような。彼らはお金のためなら日本人がそれで騙されようが死のうが関係ないと思っているらしい。

私も自分自身が「できるだけ優しくありたい」と願っているが、全ての人間に対して優しくなれるかと言われると100%無理だ。ただ、誰に優しくすべきか、そうでないかのバランスも難しい。

例えば前述のうずくまってる人の例だと

  • 困ってる人に優しくするのは常識だろ

  • お前は道端でうずくまってる人を見捨てる薄情者なのか

  • もしかすると今声をかければ1人の命を救えるかもしれない

などと頭の中で考えを巡らせた結果、優しい人になってしまう。私がそうである。しかし逆の場合も考えてほしい。

  • もしかして自分を騙す人かもしれない

  • 一回助けただけなのにこの後も付きまとわれるかもしれない

  • なりふり構わずただ単に誰かに助けられたい面倒な人かもしれない

などのような可能性もあるので、席を譲るとか道を教えるぐらいのちょっとしたこと以上のことをやるのは自分ではなく、駅員、警察や案内所などの然るべき人や場所に案内するのが無難ではないかと思う。

これらのことは人によっては当たり前なのかもしれないし、「全く助けなくてもいい」という結論になる人もいるだろう。それはそれでもいい。

私はここまで考えて「そうか、外の世界では全ての人に対して優しくしなくてもいいんだ。むしろ無愛想なぐらいがちょうどいい。」ということに気づく。私が悪いわけじゃない。複雑な世の中になっているから仕方がないのだ。でも私はどこか頭の片隅で

「人にいいことしたら、いつか自分にそのいいことが返ってくる」

と信じて、自分に優しくしてくれる人には優しくしようと思っている。それ以外は自己中心的でもいいんだという気持ちを大事にしたい。

@hsmdlily
社会人/エンジニア/主に自分のための備忘録/考えていたものをうまくまとめて言語化するためのもの