8月6日。被爆80年を迎えた。
私は、大学進学を機に産まれてからずっと過ごしてきた広島を出た。広島を離れてからというもの、「原爆の日」の空気感の差に本当に驚いている。原爆に対する意識もそうだが、広島で過ごす8月6日の朝の空気は、言葉で表すのはむずかしいけれど、とにかく、こことは全く違うのだ。
8月6日の広島といえば、街全体に静かで重たいずっしりとした緊張感が満ちていて、背筋が自然と伸びてしまうような雰囲気がある。じめじめとした蒸し暑さの中に、しかし澄んだ風が立ち込めている。「土地そのものが黙祷している」と、自然にそう思えてしまう。
そのことに気付いたのは一年前の今日。かつて「ただそうなんだ」と吸っていた記憶の空気は、今いる場所では一切共有されていない。8月6日は、ただの夏の一日として流れていく。広島を離れてから、それがどうしようもなく悲しく、寂しいような気持ちになっている。
私の祖母についての話をしたい。祖母は被爆者ではない。だが、あの日、遠くに上がった小さなきのこ雲を、当時幼かった祖母は自分の目でしかと見たという。日々の平和学習で幾度となく資料として、また、語り部の方の証言として見聞きしてきたきのこ雲は、身近にいる祖母にとっても実際に目にしたものだった。
いつかのお盆。多分私が小学三年生くらいの頃。祖母の家で家族と一緒に夜ご飯を食べていると、祖母は私と母が作ったカレーに入っているじゃがいもを皿の端によけていた。「ばぁばじゃがいも嫌いなん?」と私が聞くと、祖母は戦時中の食べ物の話をしてくれた。毎日毎日じゃがいもやかぼちゃを蒸して食べていた。白いご飯なんて当然なく、満足にお腹いっぱい食べることもできなかった。昔の気持ちが蘇るから、今でもその2つの食材は苦手だという。「戦争はね、絶対にしたらいけんよ」と言って、涙ぐんでいた。戦争の話なんて普段はほとんど口にしない祖母が、ゆっくり、ぽつりぽつりと話していた。きっと私には話していない、話せない戦時中の体験が沢山あるんだと思う。私は、泣きながら話す祖母の姿を今でも鮮明に覚えている。
戦争や被爆の記憶は、体に刻まれるのだと思う。ある場所の空気に、あるいは食べ物の味に、においに、記憶が染み込んでいる。そしてその記憶は、人の語りによって初めて他者に伝わっていく。語られなければ、どんなに深い痛みもなかったことになってしまう。原爆の日の出来事も、8月6日の広島の朝の空気も、祖母の涙も、それぞれが語らなければ失われてしまう記憶である。被爆80年という節目で、それをただ消費するのではなく、私たち自身が記憶を忘れないために新しく言葉を紡いでいく必要がある。
ヒロシマを思う。ナガサキを思う。ガザを思う。私は綺麗事をあきらめたくない。人が人を想うこと、過ちを繰り返さないと誓うこと、誰かの痛みに心を寄せること。